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2022年03月08日(火曜日)
派遣労働体験談の補足説明と背景3

30日@2021年12月@日記の内容の続きを書きます。

私の学生生活の4年目(1989年)か5年目(1990年)に、次の様な事が有った。

物理学実験の単位取得の為の実習を行なう部屋での事だったと思う。
大教室よりは、ずっと小さい部屋だった。
その部屋の中ほどの椅子に私が座っていた時の事だ。
その部屋に入って直ぐの机の上に学生が提出したレポートが積まれていた。
そこに、ひとりの学生が入って来て直ぐに、積まれているレポートの内容を閲覧し始めた。
その人が入って来る前に既に私を含めて何人もの学生が、その部屋の中に居た。
レポートの内容を閲覧し始めた学生は、途中で誰かのレポートの内容を見て驚き、
すっとんきょうな声で「誰だ?このレポートを書いた人は!」と叫び「直ぐに言い付けに行かなければ」という意味の言葉を続けた。
その様子は
25日@2021年12月@日記の後半に書かれているサヌキの様子に非常に良く似ていた。
(これが本当の心理学です)
多分わたしのレポートを見付けたのだと思う。
内容はよく思い出せないが、当時の私は、ディラックの量子力学の教科書に非常に感化されて、関数のフーリエ展開をディラック・ブラケットで書く傾向が有ったので、その味を思いっ切り利かせた内容だった事が考えられる。
そんな事をしても物理学実験の実習のレポートとしての価値は高まらない。
でも、してはいけない事でもない。
物理学実験の実習のレポートという種目は、私が自分の学力を表現する場としては本丸ではなかった。
例えて言うなら私がやった事は、物理学のレポートでペン習字の腕前を披露する事などに例えられるだろう。
私は1年生の時に2回留年したので、その物理学実験の実習は3年生向きだったか2年生向きだった。
レポートの内容を検閲してすっとんきょうな声を上げた学生は、多分わたしより入学が2年遅い人だったろう。
すっとんきょうな声を聞いても私は全く反応しなかった。
言われているのが私のレポートかも見に行かなかった。
これは、武道の「見切り」の意味での事だ。
レポートを検閲した学生のすっとんきょうな声での発言は「誰だ、こんな事をしたのは」という意味、つまり善悪の基準で悪いと評価される悪事を見とがめた時の定型句の意味に等しかった。
文字で読んでも分からないかもしれないが、アクセントやイントネーションや声の大きさや声色から判断して明らかにそうだったし、「直ぐに言い付けに行かなければ」という言葉から判断しても間違いなくそうである。
優劣と善悪は別である。
内容が優れている事は悪事とは違う。
それに、どのレポートも筆者以外の学生は読まない、先生が読むだけである。
だから、他の学生に悪い、という事も考えられない。
他人のレポートの内容を勝手に覗き見た事も、それを許すか許さないかは筆者が決める事である。
自分より2年多く勉強した人が書いたレポートの内容が過ぎているか否かは見ても分からないはずだ。
以上により、レポートを検閲してすっとんきょうな声を上げた学生の発言内容は、おまえシンナーでも吸ったんか、というぐらいに、てんで間違っている。
てんで間違っていれば通らないので反応する必要が無い、これが私の「見切り」であった。
また、間違った人間を一々直して歩くほど私も暇じゃない。
誰かに言い付けに行く、という言葉が、そのてんで間違った考えを通用させる力の存在をうかがわせるが、そういう不正な力の担い手が摘発される様にする為にも、言い付けに行くのを放っておいた方がよい。
この様に私は考えた。
さて、このエピソードは何の証拠かと言えば、学生時代後期の私の学力は既に色々な人の犯罪の動機に成るレベルに達していた事の証拠です。
私自身、内容に心当たりが有った一方で、そんな事ぐらいで騒ぐなよ、といった程度の事しか書かれていないレポートだった、というのが自己評価です。
それは、後の私の文法物理学の案出を引き合いに出せば、理解されるでしょう。
文法物理学の案出ぐらい大きい事を目指していた私にとって、学校のテストの答案の内容なんて、どんなに上手く書けても、そんな事ぐらい、です。
だから、学生でも先生でも、目の肥えた人なら、それが優れ過ぎていて脅威(悪事)だ、なんて思わないはずです、私の買いかぶりかもしれないけど。
しかし、下には下が居る、って事なんですよ。
「こんな所では学問は出来ない」の説明に成ってますかねえ。
先月たくさん書いた不審事は、レポート検閲学生が言い付けに行った行き先の何者かから湧いて出てるんじゃないか。
私の入学は1986年です。
1988年入学の人あたりから、1986年や1987年に入学した人と人間の種類が違うのではないかと私は疑っている。
1985年までに入学した人々も、1986年や1987年に入学した人と人間の種類が違っているのではないかと私は疑っている。
つまり、私の目に触れる人だけ普段とは違う人に入れ替え私が去ったら元に戻す、という計画が有ったのではないか、と思うのである。