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2021年12月21日(火曜日)
天才と世間、本当の事2

思春期ぐらいの年齢の人でIQテストでスコア180(だったと思うけど)を出した人がテレビで紹介されていた事が有った。
その人の父親の職業はトラック運転手だそうで、大学教授とかではない。
その人は大学には進学しない予定だそうだ。(今から何年も前の時点で)
テレビの取材者に向かってその人がした話の内容は、私の目には高く評価できるものではなかった。
それは才能が無い証拠には成らないが、才能が有る証拠にも成らない内容だった。
一般相対性理論の本に出て来る世界線という言葉をむやみに使ってみたり、高校入試の数学の図形の問題で思い浮かべる様な事を商店街の歩道で目に入る景色の部分から連想するという話だったり。
何か、IQが低い人とは見える景色が全然違うんです、といった感じの事を表現しなければいけないという強迫観念にとらわれでもしていたのか、取材者に向かってそんな話をしていました。
話を聞けばIQが高いと分かるぐらいならIQテストなんて要らないじゃないですか。
他者を感心させる様な話が出来る人も、どこまでがIQでどこまでが学習や研究なのか、分かりません。
どんなに学習しても研究してもIQが高くなければこんな面白い話は出来ない、という様な話が出来れば、それはIQの高さの表現に成りますが、その人は学習や研究をまだそこまではしていない様でした。

私は分相応というのを遺伝子相応だと考えるが、それは子の社会的地位は親の社会的地位に相応すべきだという意味ではない。
それは、ひとつには、親が優れた遺伝子を持っているのにそれに相応しない低い社会的地位に就かされている可能性があるからであり、もうひとつには、遺伝子が同じでも形質が発現するかしないかの違いが有るからです。
さらに、親の遺伝子と子の遺伝子も全く同じわけではありません。
色々な国の歴代の世襲君主には名君も居れば無能な人も居た事は、親が同じで遺伝子が同じでも形質の発現するしないが違う証拠です。
正確には、分相応とは、発現した形質に相応だと解されねばならない。
自由意志による後天的な選択や悪意によらない不確実の影響(運)が分相応と実際の結果を食い違わせる事は正義に反しない。
この至極当然な理念からすると、労働者の息子であるIQ180の人がプロの学者に成って人類の頭脳として良く機能している、という実例が、人数が僅少なのでありふれたとは言えないが当たり前の事として社会に存在していなければ本当はいけないのである。
多様性と言うなら、最初に実現されねばならないのは、そういう多様性であるはずだ。
アファーマティヴアクションより、こっちの方が先だろうが。
そういう理念の象徴と成り得た事も、益川敏英さんの功績のひとつだと言える。
勘ぐると、アファーマティヴアクションって、分相応の実現に伴う多様性の実現を阻害する目的で言ってんじゃないの。
こういう観点は大切で、他の例で言うと、例えば男女平等は、男女分化社会において最高に栄達するのが男の中の男と女の中の女であるのを嫌う男として劣った男と女として劣った女が社会の栄達の最大値を減少させる目的で言っている側面が必ず有ります。

労働者の息子だけどIQは180だ、IQは180だけど労働者に成る。
これは、出来過ぎていて怪しい。
出来過ぎているというのは、これではまるで生きた御世辞だ、という意味だ。
親の社会的地位に劣等感を持つ人には、労働者の息子にも学者の息子より賢い人が居ると、天才というものに屈辱を感じる人には、でもそいつは結局労働者に終わったとさと言って溜飲を下げさせる。
本当の事というのは、そんなに聞く人の心に優しいものではない。
本当は、探しても探しても蛙の子は蛙ばかりだったり、IQが180なら学者以外の仕事には見向きもしなかったりするものなんだよお。
そーゆーものなんだよお。
それを現実の厳しさと言うんだ。
だから、現実の厳しさに耐え切れず精神病に成るのは本当は、そういう御世辞を必要としている人々なんだよお。
だから私は、IQが180という結果は不正によるとかウソではないかとか、大学に進学しないというのも、周囲の人への本人の遠慮ではないかとか、遠慮しないと図々しい事にされてしまうのではないかと、疑ってしまうのである。
そんな事ありませんよ、と言われても、本人は大学で習う様な事が書いてある本を自分から求めて読んでいるじゃないか。
IQが180なのに親が労働者なら大学へ進学するのは図々しいと言うなら、IQが低いけど親がカネモチだから大学へ進学する人は何なんだ?
超図々しいか?
また、IQが180の人に労働者に成れと要求する事は、その要求に応じない事よりも図々しい。
つまり、ここにも盗人猛々しい逆さまの構図が見られるのである。

頭が良いのに大学へ行かせてもらえないという言い方は変だ、頭が良ければ大学へ行かなくても自分で勉強すれば良いじゃないか、という考えには一理有る。
上記の天才少年は数学や物理学の話をしていたので、理科系の人だと思う。
数学や物理学を自分で勉強するなら、どんなに頭が良い人でも、どの本とどの本をどの順序で読むか、読むだけでなく筆算で数式のつながりをチェックする、これらを守らなければ本に書かれている事を習得できません。
頭が良ければ過去の天才の発見をひとつぐらいなら自分でも発見できるかもしれないが、全部って無理でしょう。

上記のIQ180の天才少年が「あなたは頭が良いから好きに時間を使って下さい」と言われているのをテレビで見た。
でも、これ、私も言われた事が有るんだよ。
幼少期の事だったと漠然と記憶しているが、時期は違ったかもしれない。
それなのに今の私を見てごらんなさい、その約束が反故にされているのが分かるでしょう。
お前、何勝手な事やってるんだ、周りの他の人を見てみろよ、お前みたいにしてるやつがどこに居るんだ、と責め立てられているではないか。
好きに過ごせと言われたといってもほんのしばらくの間の事ではなかったのか、と言われるかもしれない。
いいえ、一生の過ごし方についてでした。
IQ180の天才少年が言われた言葉を調べてごらんなさいよ、そういう意味に成ってるでしょう。
この様なインチキな定型句は集団ストーカー性の物です。
亀が兎に昼寝しろと言ってる様なものであり、亀は先着した分は後でチャッカリ兎から搾り取るつもりで居るんだよ。
つまり、好きに過ごせと言われるのは、放っておいてもどうせ何も出来やしない、と高をくくられている事なのだ。
芽が出た途端に「好きに暮らしてるなんて非常識だ」って来るぞ。
その頃には言われたあなたは忘れている事を犯人は計算に入れている。
覚えていれば「お前が言った通りにしてるだけだろうが」と言い返せるんだけど。

松丸さんてのも居たなあ。
東大生でクイズの天才という事でテレビで見かけた。
今でもやってるんじゃないかなあ。
クイズの著作物を出版し始めたのだったかもしれないが、決め手は「取り組めば頭が良く成る」という要素が有るか無いか。
この機能を達成して折り紙を付けれれば、そりゃあもう世界に冠たる著作物に成るだろうよ。

2021年11月末の「朝まで生テレビ」で日本でもgifted教育を始めるべきだという提言がされていた。
しかし、なぜ「天才教育」と言わずに「ギフテッド教育」なんて言うのだろうか。
それは、天才という言葉を遠慮させる空気が社会に蔓延しており、それに屈しているからに違いない。
私は宇田英才教室を英訳するときに辞書でgiftedという単語を見つけて使ったが気に入っていない。
派遣社員として働いた時には派遣会社の山本という所長が天才という言葉をgeniusと言い換えた。
みんな、なぜ言い換えるんだ!
天才という言葉が一番分かり易いだろうが。
うるさいんだよ。

天才というのは、同じ国に生まれても、同じ町に住んでいても、一緒に話をしていても、他の人とは住んでる世界が違う。
この「住んでる世界が違う」という表現が誤解を受け易いので説明します。
30日@2021年11月@日記で説明されている様な選択がものすごく違う事を私は「住んでる世界が違う」という言葉で表します。
例えば、元々は同じだけのおカネを持っていた2人のうちの片方だけが全財産を馬券に賭けた場合、特に賭けに勝ったか負けたかが確定するまでの間の2人の違いを表すのが、「住んでる世界が違う」という表現です。
賭けてから勝敗が確定するまでの間は、賭けた人と賭けなかった人のどちらの方が不幸でどちらの方が幸せかは定まりませんよね。
そういう種類の違いを表すのが私の言う「住んでる世界が違う」という言葉です。
元々持ってるおカネが極端に違うとか、賭けの勝敗が確定した後の持っているおカネが極端に違う状況も「住んでる世界が違う」かもしれませんが、そんなの得意に成って言う様な事じゃありませんよね。
したがって、これは、主に公平裡の不平等を表す為の言葉であって、不公平に賛成する為の言葉ではありません。
最近、分断という社会問題が聞こえて来る様に成りましたが、その観点から言うと、住んでる世界が違うというのは、分断も分断、大分断、背筋も凍るような分断よう。
でも、自由ってそういう事でしょ。
綺麗ごと言ってんじゃねーよ。
自由も当然だけど和合も当然だなんて矛盾なんだよ。