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2021年12月20日(月曜日) | ||||||||||
天才と世間、本当の事 | ||||||||||
天才というものに世間がどう処するかについて、私が日頃から思っている事を、ナンダこのクソ野郎、の気持ちを込めて、今日は書きます。 「ナンダこのクソ野郎」というのは、あなたに言ってるのではなく、私の気持ちを表現する詩に過ぎません。 あなたがこのページで批判されている人に該当するならば、あなたに向かって言っています。 まず身近な話から始めます。 最近だと「博士ちゃん」というテレビ番組が放送されている。 これは、天才だとされる人の年齢が児童の年齢である番組です。 私は50年以上生きて来た間に、このタイプの番組を何度か見かけた。 10年に1タイトルぐらい有ったかも知れない。 このタイプの番組を見ていつも私が不満に思う事は、天才少年の消費者としての側面しか取り上げていない事だ。 大人の生産者やその製品にビックリするぐらい詳しいとか、学科では天才少年を番組で賞賛する事が各学科の宣伝に成る、そういう趣旨の番組に成っている。 私が子供の頃には必ずしもそうではなかったかもしれないが、近年では義務ででもあるかの様に必ずそうだ。 つまり、天才少年を出しに使って体良く大人の商売の宣伝をしているのである。 これは間違っている。 何故なら、天才というのは、まず第一義的には生産の天才の事だからだ。 天才は他人の仕事を買う人ではなく自分の仕事を売る人なのである。 私は「プロの消費者」という職業を思い付いて、これからの時代はそれも社会に貢献するだろう、と思うけれど、しかし、消費の天才というのは天才の特殊な1形態に過ぎず、天才一般ではない。 私のある友人は、音楽や映画の著作物を多く収集所有して鑑賞能力も高い知り合いを、その事を理由に、自分が今まで出会った人の中で最も天才だ、と言ったが、天才は生産の天才であって消費の天才ではない事を考えると、この発言もトンチンカンであり、それ故に何らかの口裏合わせの一部だと思われる。 私も子供の頃には、消費者として重宝だから才能を褒める、という事をされた面が有る。 それで損をした事は私には無いが、テレビで取り上げられている天才少年については、以下の点を警戒する必要が有る。 大人がその少年に付ける評価が大人の仕事を宣伝する上での都合で歪められれば、それはその少年に人生を誤らせる。 大人の仕事を宣伝する目的で天才少年を担いでいるだけなら、用が済んだら天才少年は使い捨てにされる。 大人は天才少年を将来の商売敵として自分達より有能であると認めるつもりは最初から無い。 どんな天才少年も20才過ぎればタダの人に成る様に狙って大人は共謀して選択するつもりでいる。 現在の天才少年を大人は後で「しくじり先生」というテレビ番組にでも出すぐらいのつもりで最初から居る。 この様な事を警戒する必要が有る。 IT業界の登大遊さんは、子供の頃に既に天才だと言われており、20才過ぎてもタダの人に成らず、こないだも何か優れた発明をしたというニュースを聞いた。 これなら良い。 しかし、これも、登大遊さんが、敵にとってまだ許せる範囲の成功しかしていないから、IT製品やIT教育の宣伝に成るから、潰されずに残っているのかもしれない。 本当の天才というのは、全ての利権をその人が1人で全て取ってしまうぐらいの生産をします。 その人(々)が経済の中心であり文化の中心に成る、それが本当の天才です。 世の中がそんな風には成っていないのは、不正が有る証拠です。 平等を見たら泥棒だと思え、です。 つまり、本当に天才なら私の様に否定されるはずなんです。 もてはやされるという事は、それほどではないという事です。 天才の皆さんには、そう言われて「何だとぉ!」と発奮して欲しいものです。 基本的に、世間は天才なんて認めておらず認めたふりをしているだけだ、ぐらいに疑ってかかる必要が有る。 神が居ない以上は、天才が最高の存在だという事に成る。 従がって、誰かが天才だという事に成ると、自分の相対評価は絶望的なまでに低下する。 それをものすごく嫌だと思う心理こそが、世間が天才の存在を頑なに否認する理由だろう。 これについて私は次の経験をここで証言します。 私が小学生だった頃かまたは小学校に入学するより前の幼少期に、私は父親以外の成人男性(謎の男)から「特定の個人を天才だとする事は禁止されねばならない、ねえそうですよね」という意味の事を言われた。 それを受けて私は「そうですとも、特定の誰かが天才なら、それ以外の人は、自分は何なんだという事に成ってしまうじゃないですか」と言ってリップサービスした。 私には、そういう苦い経験が幾つも有ります。 みなさん、人間って目の前に居る人の意につい沿おうとしてしまうものなんですよ。 この法則性が正義を曲げる為に悪用されているので気を付けて下さい。 言い難くて言えない、つい相手の気に入る様な事を言ってしまう、というのは、集団ストーカーがものすごく悪用する法則です。 質問に対する私の返答が余りにも侮辱的だったり冷淡だったりするのを聞いて気を悪くし、私の事を意外にも本当は悪人だと早合点した人が居ると思いますが、それは誤解です、全部じゃないかもしれないけど。 宇田君がそんな事言うとは思わなかったよ、と思ったんじゃないかなあ。 「ケンカ売っとるんか」と言った人も居たかもしれない。 けど、私は同じ間違いを繰り返さない様に、人間関係に流されない様に気を付けただけなんです。 目の前に居る人に気を使って思っているのと違う事を思っていると言ってしまうと、それは後で、その場に居ない人のどんな権利を否定するのに悪用されるか分からないんです。 侮辱も、訊かれもしないのに言ったり、思っていない事を言うのは、相手の気分を害する様に狙って発言する事だからいけないけど、質問に正直に答える限りは、その答えがどんなにひどい侮辱であっても、その答えが聞いた人に生じさせる負の感情の責任は答えた人には無い。 これが、私が断固として言い切る正義観です。 そうだとしても平然と言ってのけるあなたの態度は一体何なんだ、という批判も有るでしょう。 これに対しては、正直言って私のサディズム感情が好感している場合が有るのも事実です。 しかし、言い難い事をやっとなんとか言う時には言うだけで精一杯だから言い方までは要望に従がえない、という要素も大きいんです。 例えて言うなら、便秘で困っている時に怒った顔を作るとウンコが出るものならそうするでしょう。 平気な顔で言う、というのは、言い難い事を言う私なりのテクニックなわけです。 私だって余裕で言ってるわけではないんです。 同意しないのが精一杯で違うとまでは言えなかった事も有る。 これから直そうと思う。 次に同じ事を聞かれた時には平気な顔で「違う」と言う事でしょう。 ごく希に他者を大きく褒める機会が有った時、それまで止まっていた血流が再開し胸がジーンと熱く成り目に涙が分泌されるのを感じて、自分は本当はこうしたい人なんだ、自分が不当に他者を褒めないのは利己心からではない、という事が確認できて、安心します。 その感覚は、自分は善い人なんだというナルシシズムです。 最近の例だと、ダイソンのループ形ファンヒーターを私は絶賛しています。 他者を1回も大きく褒めない期間があまりに長いと、自分でも自分は悪い人なのではないかという事が心配に成って来るんですよ。 さて次は青年の部です。 時間が無くなったので、明日書きます。 |
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