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2021年11月28日(日曜日)
好き嫌いと自由(相対正義論の話)

正義の原理は自由の尊重であり、自由の尊重とは第奇数種の妨害を禁止する事である、と書いた。
これでは、何かがどうか成る様に狙って選択した結果が狙い通りに成るのを妨害されない権利を考えている。
しかし、自由としては、この他に、何を狙うか自由に決める権利というものも有るはずだ。
この権利を成文化すると、
好きな結果が生じる様に狙って選択する事は禁止されても妨害されてもいけない、という言い方に成ろう。

この文の「好きな」部分を「自分の価値観で価値あるとされる」や「快い」や「得な」や「気が済む様な」に変更すると、ちょっと違うなあ、であるのが分かるでしょう。
「気が済む」は「納得できる」という意味ですが、これは不条理を是正するなどの特別な場合に限られるのに対して、「好きな」はもっと色々な一般の場合に使えます。

また、自分の頼みを聞き入れない相手に向かって「(お前の)
好きにしろ」と言う決まり文句も有ります。

「好きに」には「任意に」という意味が有ると思われますが、それでも、「好きに」は「自由に」の同義語として用いられる、と考えて良いでしょう。

「好き」という言葉のここまでに書いた用法や意味を参考にすると、好き嫌いは狙って選択した結果に成り得る事に自分が付ける評価だと考えられます。
つまり、好き嫌いの対象は「~が・・・する」事や「~が・・・になる」事です。
正確には、事だけでなく人や物にも好き嫌い評価が付けられるので、その点を考慮した言い方に直すと、好き嫌い評価を受ける事や存在の全体である集合の要素の中から狙い候補は選ばれる、という言い方でどうでしょうか。

言うまでもなく「嫌い」とは負(マイナス)の「好き」だと考える事が出来るので、「嫌い」を別途論じる必要は有りません。

好きの程度は、狙い候補の優先度とほとんど同じだろうと思われますが、それだけでなく、被害の大きさを評価する基準でもあります。
期待した結果より好き度が小さい結果に成ってしまい、それが自分のせいでなければ、それは被害だと考えられます。
好き嫌いは各人ごとに違うのに、各人の好き嫌いを基準に損害を算定するのでは不公平に成ってしまう、という問題は、邪魔の問題を処理した時の「誰が何をどれだけ譲るのが正しいか」という考え方を応用すれば、解決できるのではないか。
実被害が受忍限度を超過したという判定が、被害者の言い値のままの好き度を根拠にして行なわれるのは間違っている、とする理由を突き止める必要が有る。