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2021年11月11日(木曜日) | ||||||||||
協力のゼロ点問題の分解(相対正義論の話) | ||||||||||
常識的な直感では、協力する義務は無いが、邪魔に成らない様に狙う義務は有る。 しかし、良く考えてみると、邪魔に成らない様に狙う事と協力する事とは区別できない。 邪魔に成らない様に狙う事も協力である。 協力のゼロ点問題で、その事に気付いたのだった。 そこで、どの程度協力すればよいのか、という問題に成る。 今やっているのは、「狙う」という言葉を基礎語として弾力的義務の理論を書く事であり、弾力的義務の理論は決定論ではなく確率論だから、他者の狙いが叶えられる様に狙う義務はどの程度かという問題の答えは、先見的にピシャリと出るものではなかろう。 邪魔に成らない様に狙う事と協力の区別が付かない事は、全体の富が十分に大きい場合には分かり難い。 全体の富が小さい場合として、通勤電車の中に寿司詰めにされた人々の状況を考えてみる。 隣接する人は、どうしても互いに他の邪魔に成る。 譲り合いという言葉にも表れている様に、この場合、邪魔に成らない様にする事は協力する事と同じである。 邪魔に成らない様に最大限狙うならば、電車に乗らないという選択をする事に成る。 しかし、そこまで真剣に狙う義務は無い。 それでは、自己都合の狙いのどれを邪魔に成らない様に狙う事より優先させてもよいのか、自己都合の狙いのどれより邪魔に成らない様に狙う事を優先させなければいけないのか。 もし、邪魔に成らない様にする為に電車には乗るな、と言うなら、それは、他者の電車に乗る権利を自分の電車に乗る権利より優先させろ、という事であり、それでは不公平である。 従がって、電車で運ばれる様に狙う事を邪魔に成らない様に狙う事よりも優先させてもよい、はずだ。 この結論は如何なる原理から導き出されるだろうか。 電車内で他者が邪魔に成るとは自分の何らかの狙いの候補が狙い通りに成らない事です。 自分にとって、その狙いの候補よりも電車で運ばれる事の方が大切なので、他者が電車で運ばれる事も自分のその狙いの候補よりも優先しなければいけないし、逆に、自分が電車で運ばれる事は他者のその狙いの候補よりも優先させてもよい、こういう理屈ではないでしょうか。 とすると、X < Y ならば、自分の狙いの候補の優先順位が第X位の物を他者の狙いの候補の優先順位が第Y位の物より優先させてもよく、X > Y ならば、自分の狙いの候補の優先順位が第X位の物を他者の狙いの候補の優先順位が第Y位の物より優先させてはいけない、というのが一般原理の概略だと言えよう。 この概略を元にして正確な一般原理を完成させるには、優先順位という概念を優先度という概念に置き換える必要があろう。 優先順位2位の目標をどのぐらい大切だと思っているかは人によって違うからだ。 ただし、公平性の観点から、優先度の上限はどの人も同じにしておく必要が有る。 便宜上、優先度の上限はどの人も百だとしておく。 X < Y ならば、(優先順位X位の目標の優先度) > (優先順位Y位の目標の優先度). という風に大小関係が逆転する事に気を付けねばならない。 それでは、Bさんを殺すという目標の優先度をAさんが百だとしていて、死なないという目標の優先度をBさんが90だとしていたら、BさんはAさんに殺される事に甘んじなければいけないのだろうか。 そんなはずはない。 どこが間違っているのだろうか。 妨害ではない行為は、優先度が幾ら小さくても、妨害よりも優先されねばならない、という事だろう。 今考えているのは、他者の狙い通りに成らない様に狙わない(妨害しない)だけでは不十分であり、他者の狙い通りに成る(邪魔に成らない)様に狙う(協力する)こともある程度は必要だ、という道理についてなのだから、それは当然の事だ。 心配なのは、邪魔に成る行為を妨害するのは許されねば成らないのではないか、という点だ。 妨害を目的とするのではないが邪魔に成り過ぎる行為をやめさせる事は必要である。 しかし、それは妨害だから、それよりも妨害ではない行為の中で最も優先度が小さい行為の方が優先される。 従がって、妨害ではないが邪魔に成る行為の方が優先され、それをやめさせる事が出来ない。 こう成ってしまうのではないか、という疑問だ。 妨害ではないが邪魔に成る行為をやめさせるのは妨害ではない、というのが答だと思う。 その理由は、妨害ではないが邪魔に成る行為は邪魔に成る様に狙った行為ではない事だ。 もし、邪魔に成る(邪魔された行為が行為者の狙い通りに成らない)様に狙ったのなら、それは妨害である。 しかし今は、邪魔に成るけど妨害ではない行為を考えているのだから、それは邪魔に成る様に狙った行為ではない。 であれば、(妨害ではないが)邪魔に成る行為Aをやめさせる行為Bは、Aの邪魔に成るけれど、Aを妨害する行為ではない事に成る。 Bの狙いは、邪魔されない事であって、Aの結果がAの狙い通りに成らない事ではないからだ。 これで、第奇数種の妨害を禁止すると故意の妨害ではないが邪魔に成り過ぎる行為をやめさせる事が出来なく成る、なんて事はない事が分かった。 それに加えて、妨害ではない行為に限れば、X > Y ならば、自分(他人)の優先度Xの目標は他人(自分)の優先度Yの目標より優先される、という規則に、妨害が優先されてしまう欠点は無い、という事も分かった。 やはり「妨害」概念は基礎のひとつである様だ。 さて、しかし、まだ、心配な点が有る。 それは、優勝する事の優先度を百だとしている人が居て、他の全ての人は優勝する事の優先度を90だとしていたら、優勝する事の優先度を百だとしている人に優勝を譲らなければいけないのか、そんなはずはない、という問題だ。 「そんなはずはない」というのが答えである事は明白だが、その理由を、これから考えねばならない。 ついでの話、邪魔に成るという視点で見れば、過剰防衛の禁止など、第偶数種の妨害に課される禁止を原理から導き出せるかもしれない。 第偶数種の妨害は、その対象と成っている狙いの邪魔に成る点では問題ないのだが、実際にはそれ以外の狙いの邪魔にも成ってしまう。 この部分が、邪魔に成ってもよいのはどこまでか、というルールで制限される、と考える事が出来るだろう。 今日も携帯電話からのメール送信が出来なかった。 送信したかった内容は以下です。
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