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2021年11月10日(水曜日)
妨害は基礎ではない事に気付いた(相対正義論の話)

まず、昨日の記事への補足を書きます。
自由の尊重が正義の原理であり、自由の尊重とは第奇数種の妨害の禁止である、という私の考えがこの宇田英才教室サイト内のどこに書かれているか、分かりました。
14日@2020年11月@日記16日@2020年11月@日記に書かれています。
第奇数種の妨害を禁止するのが正しい、という目で見てみると、行為の外形への禁止という方法がいかに的外れかが良く分かります。
行為の外形なんて、それが第何種の妨害であるかとは、ほとんど無関係だからです。
これは、とても恐ろしい事です。
今までみんなでなんてひどい事をして来たんだ、という事なんですよ。
悪人が持っている思想を指し示す言葉として私は劣人主主義という言葉を作りました。
劣人主主義者が悪人です。
劣人主主義者は、生物個体として優れた人の事を強い者という言葉で表現しますが、優れている事と強い事とは別です。
強いというのは妨害の力が強くても強いわけで、どこで線を引くかにもよりますが、偏差値という言葉の字面を見ても意味を見ても分かる様に、優れた人は人数が少ない故に弱く成る危険が大きい。
弱く成るとは限らないですが、それは、劣った人のほとんどが劣人主主義者ではないからです。
だから劣人主主義者は負けるんだ、というのが「正義は勝つ」という言葉の意味であり、これをねじ曲げて言ったのが「強い者が勝つ」という言葉です。
つまり、劣人主主義者の「強い者が勝つのではいけない」という言葉は「正義が勝つのではいけない」という意味なのです。
「最後は悪が勝つんだ、という点は分かってるでしょうね」と言われた経験が私には有りますが、これがその証拠です。
目前で、見知らぬ2人の片方が他方に向かって「やめてくださいよう」「やめてくださいよう」と言っているのを、私は見た事が有ります。
その様な目撃経験は過去に何回も有ります。
なぜ「ください」なんて丁寧語を使わなければいけないのでしょうか。
「こら、やめろ」と言うのが本当ですよね。
私なら、そう言います。
実際にそう言った事が有ります。
すると犯人は仲間に「おい、どうして、こいつの言う事を聞かなければいけないんだ?」と言いました。
私の言う事だから聞かなきゃいけないのではなくて、してはいけない事をするなと言われたら、誰に言われても従がわなきゃいけないのだ、言ったのが私でも。
それを否定するのが差別だろうが。
してはいけない事は、するなと言われなくても、してはいけないしね。
妨害した者が妨害された人に丁寧語を要求する、これが「なめたらあかん」の基準なんですよ。
従がってテレビコマーシャルが「なめたらあかん」と連呼するのは公共の電波を使った嫌がらせである。
なぜ「ください」なんて丁寧語を使わなければいけないか、それは弱いからです。
これは、優れた人よりも劣った人の方が強い場合が多い事の証拠です。
さて、劣人主主義者が「強い者が勝つ」という言葉で表現する法則の結果状態は、(妨害しないと優れた人と劣った人が)まるで別の生き物の様に成る、という言葉でも言われます。
この言葉も劣人主主義者を識別するのに使える印です。
妨害には生殖の妨害も含まれるので、もはや人間の所業では有りません。
劣人主主義者を識別するフレーズには、他にも「ええんじゃの」とか「やるんか」というフレーズが有ります。
意見が食い違う相手に「ええんじゃの(いいんだね)」と言ったり「やるんか(やるのか)」と言ったりする。
「ええんじゃの」というのは「お前、どう成ってもええんじゃの」という意味で、省略なしで「どう成ってもええんじゃの」と言われた事も私には有ります。
つまり、自分の意見を撤回しないとお前をどうにかするけどそれでもいいのか、という脅迫です。
それを私は「もし間違ってたら(例えば)殺すけど、それでもいいのか(間違ってない自信は有るのか)」という意味だと最初は誤解していました。
まさか、間違ってなくてもどうにかするなんて最初は思わなかった。
そのぐらいとんでもない事を言って来るわけです。
「やるんか」というのは、「妨害で勝負するのか」という意味で、オレより妨害の能力が小さいならオレに逆らうな、という成り立たない理屈です。
何でも自分の思い通りに成った人は独裁者ではなく何なのか、優勝者です。
つまり、みんなが良く知っていて賞賛している事を、ちょっと違った言い方でねじ曲げて最悪にまで貶める、これが劣人主主義者の手口です。
みんな本当は目が良く見えていない事に付け込むこの様な態度こそが人を馬鹿にする態度ではないですか。
そしてこれが、メクラという言葉を使ってはいけない「目の不自由な人」と言いなさい、と圧力を掛けている劣人主主義者の正体なのです。
また、望みが控えめであった為に全ての望みが叶えられた、という可能性や、善い事しか望まなかったら望みが全て叶えられても悪くはないじゃないか、という事も有ります。
「心の欲する所に従えども矩(のり)をこえず」とは、その事を言った物でしょうが。
劣人主主義者の犯意の頑固さは、核抑止力についての相互確証破壊の理論を引き合いに出せば、分かり易く説明できます。
相互確証破壊の理論では、敵国が自国に向かって核ミサイルを発射すれば、その時点で自国の壊滅は不可避と成ります。
それから被弾前に敵国に向かって自国が核ミサイルを撃ち返したところで、敵国を壊滅させる事が出来るだけで、自国の壊滅を防ぐ事はもう出来ないのです。
劣人主主義者の立場は、この状況に似ています。
ただ他者を不幸にする事が出来るだけで、何をどうしようが自分達が名誉ある幸福に成る事は最初から無理だと決まっている。
だから、自分から進んでする事と言えば犯罪だけであり、その意思は生涯変わらないわけです。
悔い改めても何も良くは成らないからです。
もちろん他者が被害に遭わなく成ればその分だけ良く成るのですが、それを良いと感じる事が出来ない、そういう人々なわけです。

ここからが今日の本論です。
相対正義論の次の一手が分かった。
「狙う」という概念を基礎にしようという方針には変わり無いのだが、「狙う」という概念を使って定義された妨害という概念を基礎にしようとすると、次の問題にぶち当たる。
意図的な妨害行為ではないが図らずも邪魔に成る行為も禁止されねばならないが、第奇数種の妨害行為を禁止するというルールでは、その禁止が保障されない。
なぜなら、意図的な妨害行為ではないが図らずも邪魔に成る行為は第0種の妨害行為だからだ。
その禁止は第1種の妨害行為によって与えられるのに、第奇数種の妨害行為が禁止されていたのでは、それが出来ない。
この問題に私は、協力のゼロ点問題として過去に既に気付いているが、協力のゼロ点問題では「害」という概念を使っているので、協力のゼロ点問題は最基礎とは言えない。
実用レベルでは、第奇数種の妨害を禁止する、という考え方も、協力のゼロ点問題も役立つと思うが、それらは最基礎ではないので間違い得る。
「害」という概念を使わず、「狙う」という概念にまで遡って分析すれば、法学基礎論の着想である順序集合とのつながりが見えて来るし、害という言葉や妨害という言葉を使って書かれたルールの限界がどこに有るのかを研究する事も出来そうだ。
各人が自分の狙いの候補に優先順位を付け、他人の狙いの候補の第X位の事が狙い通りに成る様に狙う事と自分の狙いの候補の第Y位の事と、どちらを優先しなければいけないかをX, Yごとに決めて行くのだろうか。
明日から考えます。

ここまでが今日の本論です。

このページには、ついでに以下の件を掲載させて下さい。

本日午前以下のメッセージを携帯電話から送信しようとしたが5回ほど連続で送信エラーが出て送信できませんでした。


福山581う2257南進通過時刻1148撮影なし

東に車高が低い白ワゴン車の東進が見えたので近隣を歩いてナンバーを読んだ。
(本当は東進ではなく北進です)

ナンバー末尾97多分カブ多分女異音うるさく多分右折南進

福山580な1980通過

福山532な1004

広島301ゆ488

福山587を1001

広島581ぬ2204

岡山301す9091

福山532な102

福山580わ675銀色軽乗用車南進通過撮影なし

第1写真倉敷480い7858
(銀色軽トラックの添付写真は省略)