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2015年11月29日(日曜日) | ||||||||||
FMラジオへのリクエストに、こんなのが有った | ||||||||||
昔FMラジオで放送された音楽番組の録音を最近聞き返していて、以下の内容が含まれている事に気付いたので、ここに告発します。 録音したのは1995年から1999年までのいつかだ、と思われます。 ただし、間違いなく土曜日です。 下記の抜粋では、何年何月何日に放送された物かを特定する役に立つ情報を、出来るだけ多く書き起こしておきました。 NHK・FMで午前6時から放送されていた「朝のバロック」という題の音楽番組で、当時はヒノ・ナオコという人がナレーターを務めていました。 この音楽番組は、名前を変えて現在でも存続しています。 ヒノ・ナオコさんによるナレーションの一部を以下に抜粋します。
この放送を録音した当時の私は、現在私に向けられている犯罪について全く知らなかったので、何も疑念を持ちませんでしたが、今では、十中八九タケノ・テツオさんは私に向けられているのと同じ犯罪の被害者だろう、と思います。 心因性反応という病名は、初診時に私が言い渡された病名と同じであり、これは、損害が犯罪の被害ではなく本人の欠点によるものだ、という風に話を持って行く為の道具の一つです。 他の病気か何かについて、「心因」という言葉は不適当なので使用しない事に成った、というニュースを見聞きしました。 それを見た時も、心因という言葉が同じ目的で使用されている、と感じました。 それと同時に、もう21世紀なのに、まだそんな物が残っている事に驚きを感じました。 リクエストなのに、葉書ではなく長い手紙だった事は、録音した当時の私なら、精神病だから間違えたのだな、という風に思ったかもしれません。 何かにつけ、そういう風に誤解される、という事も、犯人の計算には、入っているわけです。 長い手紙には、抗精神病薬を飲むに至った経緯を事細かに書いた上での、これでも心因性反応ですか、という不特定多数者への問い掛けが書かれていたのではないか、と思います。 「で特に希望する曲は無い」という部分も、その事を裏付けています。 省略された部分が音楽談義ではないらしい、という事です。 そして、この部分が全く読まれなかった事は、単に長いから省略された、という理由だけによるのではなく、マスコミが、この手の告発を握り潰す様に、圧力を掛けられている、事の証拠でもあるだろう。 従って、本件の千葉県ナガレヤマ市のタケノ・テツオさんについては、2015年05月29日の記事の考え方に従って、この人が当時主張していた被害・加害の関係が事実である、という風に認定し、それに基づいて法律を適用する方が、そうしないよりも正義に適っている、と私は判断します。 さらに、同様の事件について、網羅的な蒸し返しが、必要です。 1990年代後半の私は、バッハを素晴らしいと思う気持ちを、非常に強く持っていました。 今でも、バッハは素晴らしい、と思いますが、当時の私は、今よりもずっと強く、そう思っていました。 上記のリクエストも丁度そういう時期の物ですが、当時私は、父から「バッハが好きな人には精神病患者が多い」という風に言われて、不審感と義憤を感じた事があります。 「バッハの音楽を好む事は精神病の症状だ」と言われたなら、反論のしようが有ります。 精神病の定義を問いただし、バッハの音楽を好む事がそれに該当するか、照合すれば良いだけだからです。 しかし父は、バッハの音楽を好む事を直接「精神病の症状だ」と言ったわけではなく、単に「相関がある」と言っただけなので、これに対して反論するには、よほど普段からその問題に近い生活をしている人でもなければ、反論の根拠が手元に有りません。 私は、とっさに「そんな相関は無いはずだ」と言い返そうと思ったが、言い返さなかった。 その理由は、次の様である。 因果関係と違って相関は人為的に作れる。 この事は、バッハが好きな人には脚を骨折している人が多い、という相関を例に取って説明すると、分かり易い。 この相関は、バッハが好きな人の脚を巨大人数で組織的に手当たり次第に折って回れば、実現される。 それに加えて、精神病の場合には、精神病患者というレッテルを貼られた人と、正真正銘の精神病患者との間に、食い違いが存在し得る。 この食い違いも、人為的に作れる。 因果関係と相関の違い、正真正銘とレッテルの違い、人為的に作れるこれら2つを合成すれば、「バッハが好きな人には精神病患者のレッテルを貼られた人が多い」という主張は、真か偽か、という点においては、人の意志によって真にする事が出来る主張である。 瞬間的に、ここまで思い至ったので、私は言い返さなかった。 父の発言は、この事情を考えに入れた狡賢い発言であり、この種の狡賢さには、私は心当たりが有る。 あの宗教団体の教理からも似た物を感じたし、漠然と言ってアメリカ的な印象を受ける。 「・・・すると・・・するぞ」と言って脅迫したい者が、脅迫罪を免れるために、そう言わず「お前の様なヤツは、・・・に成る」と言って脅すのも、同じ理屈であり、こう言われて私が即座に言い返さなかったのも、同じ理屈である。 父の発言への反論としては、「バッハの音楽を好む人には精神病患者だとされている人が多い、というのが、もし本当ならば、それは、バッハの音楽を好んでいる、という理由で目を付けられて、精神病に成るまで苦しめられたり、精神病患者でもないのに精神病患者に仕立て上げられたりした人が、統計を左右するぐらい多数居る、という事の証拠と見なされるべき事実である」という反論が考えられるが、この反論の作成に要する能力は、当時の私の即席作文能力の限界を超えていた。 「精神病患者だとされている人、ではなく精神病患者がだ」と言われれば、「精神病患者だとされているか否か以上の事は我々には確かめようの無い事だ」という反論が有効である。 「どうしてか」と訊かれれば、「バッハの音楽が好きな人には精神病に成り易い人が多い、とは考え難いからだ」と答える事が出来る。 「バッハの音楽が好きな人には精神病に成り易い人が多い」と主張されれば、「それなら、最初から、それを主張としてくださいよ」と言って、それについて議論すれば良い。 因みに、この主張でも、まだ、精神病に成り難い人にはバッハの音楽を聞く機会を与えない、という人為的操作が可能であり、その点、突き詰められていない。 とにかく、どんなに狡賢く言葉を選ぼうと、上記の父の発言は、私がバッハの音楽を好んでいる事を、父が、ただケナすだけでは足りない、と思う程までに憎んでいた事の紛れも無い証拠だ、と私は考えている。 これは、十分な犯行動機である。 巨大人数で統計を曲げる程の操作を行なう話を出したついでに言うと、このページで論じている犯罪は、刑事ドラマで描かれる類の例外的に発生する個人犯罪者による物ではなく、世界中、社会全体が犯罪そのものである、という可能性すら考慮する必要がある、普遍的な犯罪です。 その観点から言って、バッハの音楽の楽譜が長い間埋没していた、という事実も、この犯罪によって作り出された可能性があります。 つまり犯人は、今生きているあの人、という者に留まらず、時代を超えて受け継がれる何者かだ、という風に考えられるべきです。 バッハによる音楽の作曲は、ほとんど科学的真理の発見に近い、と感じられる。 そして、ここで論じている犯罪の動機には、本当の事を憎む気持ち、というのが入っているらしい、と私は以前から思っている。 バッハの時代の他の作曲家の作った音楽に比べて、バッハの作った音楽だけが際立って優れていた、これも本当の事である。 バッハの音楽を素晴らしいと思う現代の人が、逆に、その反対の方に有って素晴らしくない、と思う物、それが素晴らしくないのも本当の事である。 学会で、抗精神病薬の影響を受けているらしい様子の発表者を見た事が何度もあります。 発表内容はトンデモでしたが、言説がトンデモである事をもって精神病であるとする事は出来ません。 言説がトンデモであるから、という理由で、精神病の症状をデッチ上げた者が、そういう発表者の周りに居たらしい、と私は思っています。 こういう事も蒸し返して、犯人を厳しく処罰する必要が有ります。 トンデモな言説には、本当は、インターネット掲示板で行なわれている様なキチンとした反論で対抗すべきであり、病人に仕立て上げて口封じをする、というのは凶悪犯罪です。 相対正義論@持論@学問 |
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