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2015年11月17日(火曜日)
言葉の範囲(2)

最近は、キチンと書く事よりも、体に無理が生じない事を、優先しています。
2015年11月14日の記事への補足は、今日は書きません。

今日は、次の2点を、私の意見として書きます。
(1) 心身の制御系に直結する広義言葉は狭義言葉ではない。
(2) 言葉を、内容が優れ過ぎている、という理由で禁止する事は不当である。

(1)の制御系に直結する広義言葉とは、いったん脳の対象用領域にコピーされ意識によって評価される、のではない広義言葉の事です。
例えば、注意を促す為の「危ない!」という広義言葉や、「止まりなさい」という命令文が、それです。
これらは狭義言葉ではない、という風に私は、狭義言葉の範囲を定めます。
この事は、狭義言葉ではないから使用してはいけない、という意味ではありません。
狭義言葉なら何でも使用してよい、というルールとは無関係の存在なので、別のルールで判断する必要がある、という意味です。

「危ない!」と言われれば、その真偽を判断してから対処したのでは手遅れに成るかもしれないので、念のために直ぐ応急対処する必要があります。

「とまりなさい」等の命令文も、自分にその義務が有るか否か、言った人が自分をとめる権限を持っているか否か、判断してから止まったのでは、義務違反を犯してしまう恐れがあるので、念のために直ぐとまる必要が生じます。

つまり、どちらも、違ってたらどうしよう、という心配をしたくなければ、言われたら直ぐ従わなければいけなく成るわけです。
これでは、リモコン操作されているのと同じであり、それは、自分の心身の所有権は自分に属する、という大前提に照らして、権利との衝突が無いか判断されるべき事です。

(2)は、経済活動においては自由競争が基本である、という基準に照らせば、当然の事である。
経済活動において、お前の商品は優れ過ぎているから販売禁止だ、とする事は不当である。
安全面で劣っているから販売禁止だ、という主張なら納得できる。
しかし、優れている、という事に関しては、何がどう優れていようが、過ぎているから販売禁止だ、という事は有り得ないのだ。
これを意訳すると、他の販売者の面目が潰れるから、とか、他の販売者の商品が売れなくなるから、という理由は、販売を禁止する正当な理由には成らない、という内容が、必要条件として含まれている、という事だ。
言葉という物は、その様な商品の生産手段であったり構成要素であったり、その様な商品を売る際の宣伝文句であったりするわけだから、販売が自由なら当然それも自由であり、その内容の優秀さの自由は、販売の自由に比べれば、遥かに引いた所に有る自由である。

実利・実損が伴う経済活動が自由ならば、その一歩手前の、言葉で言うだけ、という活動が自由である事は自明なのである。
これを意訳すると、他の販売者の面目が潰れるから、とか、他の販売者の商品が売れなくなるから、という理由ですら、販売を禁止する正当な理由には成らないのだから、それより遥かに押した形の、他の発言者の面目が潰れるから、とか、他者の発言の嘘がバレるから、という理由が、発言を禁止する正当な理由に成らない事は自明だ、という言い方に成ろう。

意見の対立において、一方の面目を潰さない、という事は、他方の面目を潰す、という事であり、一方の嘘がバレない、という事は、他方が不当な論難を払拭できない、という事である。
利益や名誉が両立しないならば、どちらの利益や名誉が優先されるべきかは、どちらの言ってる事の方が正しいのか、によって決められるのが、当然の正義である。

意見の対立が生じていなくても、追加の情報が無い場合の不特定多数者の自分に対する自然な推測が自分にとって不本意である場合、公然と述べられた意見に対して公然と反論したり、他者の欠点に言及するのではなくただ自分の長所を発表するだけの発言をする事によって、不特定多数者の自分に対する誤解を是正しようとする事は、たとえ、他者の面目と両立しなくても、その事を心の中でザマーミロと思ったとしても、それが全く自由であるのが正しい事は、自分の面目にだって他者の面目と同等の配慮が払われて然るべき事からして、当然の事である。

私を馬鹿にしようとした者が、馬鹿にされない様に私に交わされた事を、私から馬鹿にされた、と主張するのは、法の下の平等の忘れた振りである。


相対正義論@持論@学問