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2015年11月14日(土曜日)
言葉の範囲

言葉の中にも禁止されるべきものはある、と考えるのではなく、言葉の範囲を従来よりも狭く定める事によって、言葉は完全に自由だ、という風に考える方が良いだろう、という考えを以前私は述べた。
つまり、禁止されるべきか否かの境界を、言葉であるか否かの境界とするのが良い、という考えだ。
しかし、そこでは、私は、肝心な、どこまでが言葉で、どこからは言葉ではないか、という問題については保留したままだった。

今日は、この問題に対して、一応の答えとして私が思っている事を、書きます。
まだ細部に曖昧さが残っていますが、言葉の中にも禁止されるべき物は有る、という考えに比べれば、かなりの大きな前進だと思う。

ある人は「それは前進ではない、それでは禁止が足りない」と言うかも知れない。
確かに、どこまで禁止すべきか、という問題については、前進ではなく、前進の為の足掛かりに過ぎない、とは言える。
しかし、言葉の範囲を私の様に狭めた上で、言葉は完全に自由だ、とする私の意見と同じ意見の人にとって、今までは、自分の意見を他者に伝える手段が無かった所を、私がここでその手段を与えた、という意味においては、進歩だ。

私の考えを誠心誠意書くと、現段階では、それは次の様な言い方に成る。
自分の脳の状態の一部または全部を他者の脳内の対象用領域(客体用領域)にコピーする事(伝達)を目的とする表意行為のうちで、言語(広義言葉)による物を言葉(狭義言葉)とする。
そして、言葉(狭義言葉)が、その内容の如何によって禁止される事は、一切あってはならない。


この基準に従えば、嘘は言葉ではない。
なぜなら嘘は、発言者の脳の状態とは異なる状態を相手の脳内に作り出す事を目的とする表意行為だからだ。
嘘においても、発言直前に発言者の脳内に嘘に該当する状態が発言用に作り出されるので、それを如何にして除外するか、という問題が解決されていない、という意味で、私の定義にはまだ曖昧さが残っており、私の定義は不完全だ。

内容の如何によって禁止される事があってはいけないが、内容以外の要素によって禁止される事は、そうあるべき場合が色々と有る。
業務中の人に一方的に話し掛けて業務に支障を生じさせる事は、業務妨害が目的ではなく内容を伝える事が目的であっても、禁止されるべき事だ。

突然「わっ」と声を掛けてビックリさせる、という事も、口で言っただけだから自由だ、とは言えない。

伝える(コピーする)という点に着目しての私の定義を用いれば、しつこく繰り返し同じ事を言って相手を煩わせておきながら言葉の自由の範囲内での事だと言って開き直る、という行為は、言葉の自由によって正当化されない。
なぜなら、コピーが必要なのは1回だけだからだ。
複数回同じ事を言っても良いのは、1回でコピーが完了しなかった場合や、前回のコピー結果を相手が忘れてしまって再コピーの必要が生じた場合だけであり、大抵は、相手がコピー完了を宣言すれば、それ以上は繰り返してはいけない。
ここで私が「大抵は」と言ったのは、コピーが完了してないのに完了したと錯覚したり嘘をついたりした場合は違うからだ。

聞き手の反応が思わしくないのを見て話者が同じ話を繰り返そうとした時に、繰り返しをやめさせる為に聞き手が発する「言ってる意味は分かる」という言葉は、コピー完了宣言の具体例と見なせる。

新しい大内容を伝える過程で、コピー済みの小内容を引用する場合には、その小内容を再度発言する事に成るが、これは、禁止されてはいけない。
引用において、小内容を繰り返す事は不可避ではなく、「発言(1)により・・・」という引用の仕方をすれば、繰り返しを避ける事が出来るが、それを義務とするのは行き過ぎだろう。

また、極端な場合として強調しておきたい事は、発言者が聞き手の事をどう思っているか、については、その内容が如何に差別的であっても侮辱的であっても、その事は発言を制限する理由には全く成らない、という事だ。
嘘は駄目だけど、発言者が本当にそう思っているなら、その発言はオッケーなのだ。
本当にそう思っているならアウトだ、という考えは、てんで逆さまである。

どんなに間違った考えであっても、思う事すら禁止される、というのでは、内面の自由というものが守られないし、思わない様にする事は無理である。
何をどう思うかは、その人そのものであり、それを否定する事は、お前は存在するな、というのと同じである。
たとえ、その内容を歪んでいるからといって矯正する事が出来ても、本人の意に反して矯正すれば、それは著しい人権侵害である。
国を愛する心、といった物も、この例外ではない。
社会が個人に義務として課す事が出来るのは、行為について、までである。

思うものは思うんだ、思うんだからしょうがないじゃないか、という事である。
これに反発しての「するものはするんだ、するんだからしょうがないじゃないか」という意見は単なる屁理屈である。
何を思っても良いが、何をしても良いわけではない。


以下に、具体例を挙げて、どういう場合にはどう良くて、どういう場合にはどういけないか、を論じる。

---
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪い、本当に馬鹿だから馬鹿だと言ったまでだ」

この台詞は、最近ではメッキリ聞かれなく成ったが、過去のある時期には、有り触れた台詞として色々なテレビドラマに出て来ていた。
悪役の暴言として出て来たのではなく、主役級の人物の口喧嘩での台詞として出て来るのが普通だったと思う。
つまり、無遠慮では有るが筋を通している、という扱いだった、という風に私は受け止めている。

私は、テレビドラマを見ていて、この発言を聞いた際に、相手が馬鹿であれば馬鹿だと言っても構わない、という部分に、違うんだけどなあ、という風に引っ掛かったが、これは、もちろん「馬鹿という侮辱は甚だしいので、たとえ相手が本当に馬鹿であっても馬鹿なんて言ってはいけない」という意味ではない。

テレビドラマで主役が教え諭されるシーン等で、キチンとした考え方として出て来る道理には、私は昔から、ちょっと違うんだけどなあ、と感じる事が多く、視聴者を教育するのが目的の番組ではなく見せたいのは別の要素だから、完全無欠に成らない様に故意に少し曲げてある、という事かなあ、という風に勘ぐって来た。
確かに、文句を完全無欠にすると登場人物の魅力が減ってしまう、といった懸念は有る、と私も思うが、現実の犯人の影響が及んでの事ではないか、とも疑っている。

さて本論だが、馬鹿でない人に馬鹿と言ってはいけない。
しかし、馬鹿に対しては常に馬鹿と言ってよいか、と言えば、そうではない。
つまり、相手が馬鹿である事は、その人に馬鹿と言っても良い為の必要条件だが十分条件ではない。
それでは、馬鹿と言っても良いのは、相手が馬鹿である事に加えて、どういう条件が成り立っている場合だろうか?
それはケース・バイ・ケースであって、全ての場合を網羅する事は、出来ないのかもしれない。
「私は馬鹿ですか?」と質問されて「はい、馬鹿です」と答えた、という場合には、相手を馬鹿と言っているが、これはオッケーだ。
何かの役をやってもらう人を人選している際に、傍らに居合わせた人を指して「あなたは馬鹿だから別として」と言った、という場合にも、相手を馬鹿と言っているが、これもオッケーだ。
法核としては、少しでも必要が有って言った事ならオッケーだが、必要も無いのに、ただ相手を侮辱するだけの為に言うのはアウトだ、という事かもしれない。
ため息交じりの独り言の様な調子で、普段から思っている事がつい口を突いて出て来た、という場合もオッケーだと思う。
相手を侮辱するだけの為に言う、というのは、
加害目的に故意に自分の予定を変更する事に該当するから、いけない。

馬鹿という言葉の厳密な定義は不明だし、どんなに馬鹿に見える人でも、その人が賢さを発揮する事は今後もずっと絶対に無い、という事を百パーセントの確率で予言する事は不可能だ。
だから、確かめ様が無い場合も有るけど、言った事が事実に反していれば言った人が悪い、そうでなければ、上に書いた様な事に成ります。
賢さを発揮した人が馬鹿でない事は確かなので、馬鹿だと言われた人が、それ以前または以後に賢さを発揮していれば、その人を馬鹿だと言った人のその発言は不当だ、という事に成ります。

相手が本当に馬鹿であろうとなかろうと、「あなたは馬鹿だと思う」という発言なら、正直に思っている通りを述べた場合には、常にオッケーだ。

必要が有れば言っても良い、という私の基準は「それを目指す事自体は自由だ(達成する手段が無いから出来ない、という可能性までは否定しない)とされている目的を達成する手段として何を用いるか検討するプロセスに、狭義言葉の内容の倫理審査は、全く含まれていなくて良い」という意味であって、他に手段が無いのでなければ必要とは言えないから言ってはいけない、という意味ほどまでには、必要性を厳しくは問わない物だ。

現実の犯人の手口は、次の様なやり方だ。
特定の個別局面で、この発言は是か非か、という風に私に尋ねる。
例えば、それを、ある馬鹿でない人に別の誰かが馬鹿と言っている状況、だとしよう。
これに対して、私が非と答える。
すると犯人は、そう私が答えた事を「誰に対してであれ馬鹿なんて言ってはいけない」というのが私の考えだ、という風に曲解し、そう曲解した事をその場では伏せて「・・・という事ですね?」という風には一切確認しない。
そうした上で後日、私が誰かに向かって馬鹿と言っている所を捉えて、私の居ない所で陰口として第3者に、宇田は言ってる事とやってる事が違う、という風に指摘するのだ。
これを私は見たわけではないが、考え方としては当たってるはずだし、ひょっとすると、全くそのままのも有るかもしれない。


疲れたし、頭痛もするので、今日の推敲はここまでとし、以下は未編集のままとします。



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・・・種の人から実害を受けた人が、・・・種の人に向かって
「これだから・・・種の人は困るんだよね」

男性から平穏に平叙文で交際を申し込まれた女性が、
「だれが、あんたなんかと、つきあうものですか」

職業選択の自由に従って、どの職業を志望し、どの職業を志望しないか、その理由を正直に述べた言葉は、その内容が特定の職業を如何に侮辱する物であっても、制限される事があってはいけない。

一般に、質問に対する正直な答えを質問者への加害として呵責の対象とする事、は不当である。
秘密を答えてしまう事が、質問者以外への加害と成る事は有る。

美人女性に交際を申し込もうとしているハンサムでない男性に対して、
「それはやめるべきだ、自分の顔を鏡に映して良く見てみろ」

「私は、これこれの被害を受けています」
という告発は、制限されてはいけない。
この様な告発は、それを裁判に掛けて審議される権利までが保障されている物であり、告発するだけなら、それは、裁判に掛ける一歩手前の段階であるから、完全に自由であるのみならず、。
裁判での証言は、それ自体が一つの証拠であり、退けるには証明の義務は退ける側に有る。