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2015年10月20日(火曜日) | ||||||||||
自分の思い通りの人生 | ||||||||||
2015年10月10日の記事の終盤や2015年10月09日の記事の※1に、私にとって何が本意であり何が不本意であるか、が書かれており、また、2015年10月09日の※2で、そう考える事の道徳的な潔白さが主張されています。 ついでに言うと、自由主義の下では、自分は頭が良いから学者に成る、という態度の方が道徳的に潔白なのであり、自分は頭が悪いけれど皆が私に学者をやってくれと言うから学者に成る、という態度の方が道徳的には間違っている。 自分は頭が悪くて学問で社会に貢献は出来そうにない、と思うなら辞退すべきである。 謙遜の美徳の偽善を暴くこの論理が、選挙での政治家の、我こそは、という態度を生む、というのは、新しい意見ではないはずだ。 もう一つ、ついでに言うと、自由主義においては、楽をした人が、幸福に成った人が模範であり、手本であり、先生である。 他者の為に如何に多く苦しんだか、という基準とは逆である。 なぜなら、目指すべきは、皆が出来るだけ苦しむ社会ではなく、皆が出来るだけ楽に成る社会だからだ。 この点については、2014年08月06日の記事と2014年08月11日の記事で国民栄誉賞への考え方として言及されている。 今日は、2015年10月09日の記事と2015年10月10日の記事で出た話のついでとして、私にとって、自分の思い通りの人生とは、どんな人生だった(過去形にしたのはそう成らなかったからです)かを、2015年01月か2014年12月に父に口頭で話した事のメモを推敲する形で、以下に書きます。 --- 自分の人生が何でも自分の思い通りに成らなければ気が済まない、という感じ方よりも、他者の人生が何でも自分の思い通りに成らなければ気が済まない、という感じ方の方が、甘えており、犯罪の動機に成り易い。 誰かの人生が何でもその誰かの思い通りに成る事、を過度に厭い嫌い、それが高じて、その事でその誰かを非難するに至っては、これは、他者の人生が(何でもではないけれど)自分の思い通りに成らなければ気が済まない、という感じ方を動機とする不当行為である。 因みに、お前は馬鹿なんだ、という主張が、俺は賢いんだ、という主張よりも僭越で傲慢である事も、同様である。 私には過去に、こういう意味の指摘をして「お前、怖くないのか」と言われた事が有る。 先述した様に、これは、私の様な人間は犯罪を犯す、という主張が嘘であり、本当は、私の様な人間に対して犯罪を犯す者が居るのだ、という事および、私の様な人間は犯罪を犯す、と言ってる者が、その事実に賛成している事、の証拠と見なせる。 私に対して向けられているのは「俺(達の先生)はお前よりも賢いのが当然であり、お前は俺(達の先生)よりも馬鹿であるのが当然だ」という主張であるのに対して、私の主張は「もし私の方が賢ければ私の方が賢いという事実に基づかねばならない」という主張であり、明らかに前者の方が僭越・傲慢・人権侵害的である事が分かろう。 この様な者が私に向かって逆に、お前は傲慢だ、レスペクトが足りない、もっと謙虚に成りなさい、と言って来たのが実態だ。 ---- 私にとって、自分の人生が何でも自分の思い通りに行く、とは、二十歳で大学教授に成り、三十歳で経済的な大成功を含む大成功をし、それによって一生分の金を稼ぎ、その後は稼ぐ義務皆無の状態で自由にもっと大きな目標を追求し、美人と結婚し、子供も優秀で、自分の稼いだ金で親孝行も友達孝行もする、という物であり、今の状態を、何でも思い通りに成っている、と思ったら大間違いだ。 私は、それで我慢している(今後も今のままで良いとは考えていない)のだから、自分の人生が何でも自分の思い通りに成らなければ気が済まない、とは考えていない事は明白だ。 (父から、お前は何でも自分の思い通りに成らなければ気が済まない、という意味の言い掛かりを付けられる事があるので、それへの反論) --- 「お前は寂しいヤツじゃのう」という言葉は、二十歳で・・・の人生を歩んでいる私に「お前はそれで何とも思わないのか」と尋ねて、私が「何とも思わない、ああ良かったわあ」と答えるのを聞いた直後に発するのが、文脈的には正しく、何もかも取り上げた上で「お前は寂しいヤツじゃのう」も言う、という態度は道徳的には有り得ない。 さらに、適切に使用された場合の「お前は寂しいヤツじゃのう」に対して返す言葉は「何とでも言え」であって、これは、「お前は寂しいヤツじゃのう」と言った人が指をくわえて見ている以上の事は何も出来ない、という前提の下で発せられる言葉である。 --- 「何とでも言え」と言うと、「寂しいヤツじゃのう」という批判が妥当していて開き直っている、かの様な印象を受けるが、それは早合点だ。 「他人の仕事を馬鹿にしやがって」という呵責語の本来の座席は、「何とでも言え」の位置であるし、「何故そんな風に言われなければいけないのか」という呵責語の座席もそうだ。 これら2つの呵責語を用いた場合の意味が「何とでも言え」という言葉を使うと排除される、という事は全く無く、「何とでも言え」という言い方は、開き直りの場合も含めて、単にひっくるめて言っただけの物だ。 つまり、もし仮に私が自分の思い通りの人生を送っていたとしたら、何故それが寂しいヤツなのか、それを寂しいヤツだ、と言うのは、学問という物を馬鹿にしているからだろうが、という意味で、「他人の仕事を馬鹿にしやがって」という反応が妥当だし、また、もし仮に私が自分の思い通りの人生を送っていたとしたら、何故それが寂しいヤツなのか、それを寂しいヤツだ、と言うのは、学問を職業とする事を不道徳だと考えてるからだろうけれど、そんな道徳は無い、という意味で「何故そんな風に言われなければいけないのか」という反応も妥当なわけだが、そこまで立ち入った答えをするのが煩わしいので「何とでも言え」とだけ言う、という使い方は、「何とでも言え」という言葉の正しい使い方だ、という事だ。 この事情は、刑事ドラマで「証拠でもあるのか」と言う人は必ず真犯人だが、無実だから証拠は無いはずだ、との考えに基づいて言ってる可能性だってある事に似ている。 現実で無実の人が言いそうな言葉や言った言葉の実例に対する偏見を先回りして準備(濡れ衣を着せられそうに成った人の叫びを聞いた人が誤解する様に)し、冤罪を補助する、という働きをテレビドラマが担っていた可能性を私は大いに疑っている。 刑事ドラマでの、私空間内に突然入って来た面識の無い刑事達に向かって真犯人が「何だ君たちは!」と言って驚き激高するシーンや、私的な好みの歪みに言及された真犯人が「刑事さん、それが罪にでも成るんですか」と言い返すシーンも同様だ、と私は思っている。 上で私が、「他人の仕事を馬鹿にしやがって」という呵責語の本来の座席、という風に、「本来の」という言葉を使ったのは、逆に、学問を志す事は他の分野を馬鹿にする行為だ、という意味で、「他人の仕事を馬鹿にしやがって」という不当な非難が私に向けられ続けて来た事に対して、その論理の倒錯した詭弁性を暴くためだ。 私は、職業学者は皆、他の職業の人よりも偉いんだ、なんて考えてはいない。 しかし、学問として最高の仕事が人として最高の(他分野の最高の仕事よりも貴い)仕事だ、という風に、かなり若い頃から一貫して強く感じ続けており、学問として最高の仕事とは、私がしている様な仕事の事だ、と昔から思っている。 これは、自分に出来たから言い始めた事ではなく、俺には無理かもしれないなあ、と思っていた頃から、そう思い続けて来た事なのだ。 --- |
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