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2015年03月10日(火曜日)
自分の事は自分でやれ(宇田経済学の話の続き)

2015年03月07日の記事では、世間で言われている事は何もかもサカサマだ、という事を明らかにしたが、この様な論破は、現実社会の状況の複雑さによって、今まで妨げられて来た。
善意に解釈して、全員で大挙して迷った、悪意に解釈すると、現行の経済システムは犯人の目眩ましだ、と言える。

正しい意見の回りには、何て酷い事を言うんだ、という反応をこじつける地雷が無数に埋まっており、それに触れない様に表現するには、高度の言語能力が必要に成る。
サカサマという事に関しては、多くの人が感じているはずだが、言おうとして地雷に触れたり、地雷を警戒して言いあぐねたり、という所止まりだったのだろう、推測する。

現代社会に潜むペテンを見破る為には、基本はこうだよな、状況がどんなに複雑に成ってもその点は変わらないはずだよな、という切り口で考える事が有効だ。

今日は、その一例として、自分の事は自分でやれ、というルールが基本であるはずだ、という切り口で考えてみる。
基礎的分限以外の全ての資源を平等に配分した上であれば、取引は一切しない、という態度は正当であり、これが、自分の事は自分でやれ、という態度だ。

この様に言われて反発するのは誰か?
第一義的には、それは、生物個体として劣った人だろう。
弱い個体を侵略したい強い個体や、望み望まれながら協力し合いたい人対も、反発するだろうが、これらは第二義的な物だろう。
生物個体として劣った人は、生物個体として優れた人に、自分の事をしてもらいたい、と考えるはずだ。
極端な話、他人の助け無しでは生きていけない個体というのも居る。

透明貨幣描像で考えれば分かる様に、おカネで財やサービスを買う、というのは、ストレートに、自分の事を他者にしてもらう、その物だ。
したがって、第一義的には、おカネという物は、生物個体として劣った人の為のツールだ。
おカネを使っても、あくまで、劣った個体が自分の事を優れた個体にしてもらった、というのが実態であり、おカネを払ったからギヴ・アンド・テイクでお相子だ、という風には成らない。

私は、劣った個体が優れた個体に助けてもらう事を、悪いとは言わない。
それではカッコ悪いからヤセ我慢する、という選択を劣った個体がする事も、その人の自由だ。
しかし、助けも欲しい、カッコ悪いのも嫌、という虫の良い欲望を、優れた個体に実損を負わせ恥もかかせる事によってでも実現して来た、という態度は、限度を超えた身勝手だ、と考える。

貨幣経済でも、他者にしてあげた分だけ他者からしてもらう(
貸借描像)、というルールに成っているので、これは、自分の事は自分でする、というルールと等価だ。
これを幾ら繰り返して(状況が複雑に成って)も、劣った個体が金持ちに成って優れた個体が貧乏に成る、という結果は生じない。
してもらうと所持金が減り、してあげると所持金が増えるのだから、その逆に成るはずだ。
しかし、状況が複雑に成れば、優れた個体に尻尾を掴まれない様に、劣った個体が、他者にしてあげた分だけ他者からしてもらう、というルールに違反して蓄財し、それを用いて優れた個体を自分の為に使役した上、それを恩と言って反論を受けない、という技術的可能性が身近な物に成り、それが今駆使されている主たる害悪である。
参考:
2012年02月04日の記事

苦労を伴う与益である必要は無いが、与益の報酬として得たカネで財やサービスを購入する事は、自分の事を他者にしてもらった、事には当たらない。
これは、通貨行使という形式的に同一の行為には、「借りる」という意味を持つ物と「受け戻す」という意味を持つ物の2種類が有る、という私の過去の指摘(
2012年01月30日の記事)に対応する。
趨勢としては、生物個体として劣った人による通貨行使は「借りる」であり、生物個体として優れた人による通貨行使は「受け戻す」だろう。

他者にしてあげた分だけ他者からしてもらう、というルールへの違反以外に、させない、妨害する、という違反も重要な要素だろう。

この様に大掴みに考えると、犯人が生物個体として劣った人だ、という風に見当が付く。