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2013年05月25日(土曜日)
左肘脱臼もやられた様だ
2006年05月12日の左肘脱臼も、加害者連の工作によるものだ、と今では思っている。
これは、
2005年10月09日のトラブルに対する報復だと考えられる。
あるいは、
2006年10月の日米合同物理学会への私の参加に対するものかもしれない。
学会直前に、交通事故を仕掛けられる事が多い。

2005年10月09日の件について、その日の日記の記述は不十分なので、ここで少し詳しく説明しておく。

私は、1週間に1回、ロード自転車で数十キロの距離を走る。
この日も、ロード自転車走行の日だった。
問題が起きたのは、Google地図での位置≒34.465696,133.39789の少し北を南下していた時だ。
私の右脇をダンプカーが、私との間隔を横方向に十分に開けず、大きな相対速度で、追い抜いて行った。
それに対して、私が「危ない!」といった感じの言葉を怒鳴って注意すると、そのダンプカーが、Google地図での位置≒34.465696,133.39789に停車して、中からゴッツイ男2人組が降りて来た。
言葉でどう言ったか覚えていないが、明らかに暴力を背景に威嚇する態度であった。
そして、片方の男が、私の腕の手首に手を掛けて、軽く引いた。
これは、私に腕力で対処する等のミス(この状況ではそれはミスとは言えないが)を出させるか、怖いので相手の言い分を呑む、という態度を取らせる手段だったと考えられる。
それに対して、私が、全くひるむ様子を見せず、また、暴発もしない、と分ると、相手の方から、警察へ行こう、と言い出した。
これを聞いて、私は、警察を味方に付けている様だ、と感じた。

私から、お前の方が病気なんじゃないのか、と言われ、それじゃあ周りのみんなに聞いてみればいいじゃないか、と言った時の父の態度に、似ている。
私が事実を他人がどう思うかよりも貴重だと考える事、に対する反発だ、と想像している。

福山東警察署曙交番で、警察官立会いの下、私は、その2人組と話を付けようとした。
しかし、2人組は、私が話すのを、自分達の発語を被せる事や私のジェスチャーに難癖を付ける事によって、妨害したので、私は、十分に自分の意見を述べなかった。
大声を出せば、述べる事が出来たが、それはその時の私の本意ではなかったので、大声は出さなかった。
私のジェスチャーへの難癖、というのは、私が、2人組の片方または両方を指差した事に対するもので、その後、他人を指差す事を、もっと重大な犯罪よりも優先的に非難するニュアンスの言説を、テレビで見る事が増えた。
二人称(私が2人組の両方または片方を言い表すのに使う言葉)にも難癖を付けて来たのだった、かもしれない。
デジタルオーディオプレーヤーのイヤホンを付けたままである事にも、文句を言って来た。
それまでは実質上は自転車走行中にイヤホンで音楽を聴く事が出来ていたのに、この事件を境に、それが実質上出来なくなった事は、この事件に由来する、と私は思っている。
とんでもない話だ。
私の言葉使いが、交番の警察官に対しては、礼儀正しい語法に則っている点に対して、2人組の少なくとも片方が、それを事実とは違う理由によるものと早合点して、不満に思うつぶやきをした。
相手が警察官であるかダンプの運転手であるかによって、私の言葉遣いに違いが生じている、と考えたようだが、私の言葉遣いの違いは、私に対して罪を働いた者とそうでない者の違いであった。
相手の社会的地位によって言葉遣いを変える事も私にはあるが、この時の言葉遣いの違いは、主には、そういう事であった。
また、2人組にとって、その警察官は同じ穴のムジナという認識だった雰囲気を、そのつぶやきから感じ取った。
自分達の同類が、制服を着て交番から出て来たというだけで、自分達よりも丁寧に扱われている、という感じ方をしたのではないか。

事件の少し前に私が信号無視をした、という事を2人組は指摘した。
2人組に対しての加害ではないので、2人組が私に対して請求出来る事は何も無いが、これは事実だ。

2人組が私に対して、自分達は仕事で走っていてお前の様にチンケな自転車でチャラチャラ遊んでるのとは違う、という風に言った際に、私は、それに対して、「お気の毒に」という風に、コメントした。
このコメントについては、私の言い方は、イヤラシイ言い方であった事を率直に認める。
もちろん、このイヤラシサは直前の相手の発言のイヤラシサと釣り合っており、特に問題は無いが、私の様にレベルの高い人間にとっては、それすら本領ではない。
「お気の毒に」なら、後で引用されても、その時までにニュアンス情報が失われてしまい易く、証拠立てての非難を受け難い。
言ったその瞬間ですら、上げ足の取り様が無い。
表面上は相手を気遣う徳の高い言葉である。
その事情を悪用している所がイヤラシイ。
しかし私は、この言葉を、相手を傷め付けるために吐いた。
それが事実である。
2人組の言い分は私に対する犯行の何の理由にも成らない、という事が、その時私が返すべきだった言葉の粗筋だが、そう言わずにイヤラシイ言い方をしたのは、単なる攻撃欲だけでなく、即座に的確な抗弁を返す事は私でも難しいからだ。

交番では、2人組が、ナンバープレートの付いていない車両は車道を走る事が出来ないはずだ、と言い出して、これについて私が、警察官に「そうなんですか?」と質問し、警察官が「そうです」と答えた事によって、それでは、という事で、私が2人組に謝罪して、終わった。
私に対して、お前は傲慢だ、もっと謙虚に成れ、という態度が、お決まりのパターンとしてありがちだが、それへの反証として、例えば、私のこういう態度を、一々私の側から指摘しなければいけないのだろうか?
そういう事を、本人の口から言わせるものではない。

ロード自転車に乗り始めた頃に、私は、ロード自転車のプロの書いた本を読んで、自転車は車道を走るのが原則だ、という事を知っていたので、それも、これは知らない人が多くあなたにとっても意外だろうけれど、という扱いで書かれていて、強く印象に残っていたので、この事件の時にも、ロード自転車で車道を走る事は出来る、という事は責任を持って知っていた。

自転車は車道を走る、という原則について、この事件の後、それが私の周りで取り上げられた際に、この原則がどの程度知れ渡っているか、という相場について、事実とは違う事が事実であるかの様にしらばっくれる傾向に何度も遭遇し、不審に思い、自分に有利な事実が揉み消されそうな不安と憤りを感じた。
それは当然自転車は車道なんだけれど、みたいな言い方である。
この言い方は、この原則はあまり知られていない、という事実を揉み消そうとする言い方である。
その際に私が持ち出すのが、高校生時代、登校中、自転車で、福山北警察署神辺交番の前を西進していた際に、交番の警察官から「どこ走ってるんだ」という言葉で注意され、慌てて歩道に乗り入れた、という経験談だ。
この場合も、警察官がこの原則を知っていない。
福山東警察署曙交番の警察官も知らなかった。
したがって、警察官でも知らない原則だから、あまり知られていない、と結論できる。

交番で体の運動量が減った状態で長話した事と、福山東警察署までの走行が遅速だった事によって、私は風邪を引いた。
精神的なショックも効いていた。
腹を立てた状態を長時間持続させると、熱が出る傾向がある。

その後、福山東警察署に行って質問すると、非常に丁重に、教えて下さった。
しかし私には、現場で私が相手をやっつける事さえ回避できれば、あとは何とでも言えばいいんだ、という態度に感じられた。
自動車専用道を自転車で走る事は出来ないが、そうでない車道は自転車で走る事が出来る、という答えだった。
そして、トラブルのあった場所は自動車専用道ではない、という事も確認出来た。
私の側に落ち度は全く無かった事が分かった。

その数年後に、大体その辺りに、民主党の事務所が出来て、今でもそれはそこにある。
そこを通過する時に、何度も良くない雰囲気を感じた。
あまり言いたくはなかったが、私に対して嫌がらせを働く薄汚い野郎どもからは、労働者、労働、というジャンルの雰囲気が、濃厚に漂って来る。
正直、労働の糞、糞労働者という気持ちで一杯だ。
労働者が不幸である事は認める。
しかし、不幸である事によって他人を呵責出来る事は極めて限られている、という事を知れ。
お前は遊んでいて俺たちは働いている、と言うかもしれないが、生産の質・量について言えば、労働者なんて私の足元にも及ばない。
したがって、労働者である事によって私を呵責出来る事なんて何も無いぞ。
俺のせいで不幸に成ったんなら別だけどな。

中学生時代に、当時その通りの橋を渡った向こうに在ったホームセンターに私が買い物に行った翌日か数日後に、当時私の通っていた英語塾の先生が私に対して、あの通りに行っただろうが、と尋ねた際の、その口調が、ハッキリと私を咎める様な口調であり、不審に思った。

また、ここ数年の内に、そのホームセンターと同じ商標のホームセンターの自宅近くの支店に行った際に、駐車場で父の自動車に乗る際に、別の客が、隣に停めてあった自動車の中から、睨みつけて来た。
今でも、そこに行くと、店員からも他の客からも色々と嫌がらせを受ける事があるが、駐車場の件は、何かそれとは違ったものを感じさせた。
仕事で使う物をそこで買っている客が、そうでない人が来ると、自分達の買い手としての優位性が崩れる事を、嫌がるのではないか、などと思った。
すると、これも、労働、労働者というジャンルの話だ。

幼稚園時代に仲の良かったN君は、その通りの橋を渡った向こうの手城に引っ越して行った。
2人組は、人間の類型がN君に似ている。
また、N君は、小学校に上がった途端に私を無視して遠ざかって行ったが、その成り行きに、不審さの深度が、だいたい本件の深度と共通する。

ロード自転車走行中で、この通りは、顕著なクセモノ・スポットの一つだ。
数年前には、ここが特に、という感じだったが、今は、そういう風には感じない。
それは、別の場所でも同じぐらい嫌がらせをされる様に成ったからで、この場所での嫌がらせが減ったからではない、のかもしれない。
この界隈は、私が小学校1年生の時から中学校1年生の時まで住んでいた福山市沖野上町に近い。
その事と関係あるんじゃあないか、という風にも思う。
私は、中学校2年生の年頭に、沖野上町から現住所の神辺町に引っ越したのだが、村八分的な事情で住めなく成ったから引っ越したのではないか、という疑いを少し私は持っている。
あるいは、一昨日の記事に書いた自転車区と歩行者区の境界の変更と同じく、私を抹殺するための下準備として、抹殺専用地帯に移送したのではないか、という風にも疑っている。
沖野上町では、飼っていたウサギが殺される、という事件が起きた。
野良犬の仕業だ、と聞かされたが、本当は人が殺したんじゃあないのか、という風に私は疑っている。
子供の目には酷過ぎる、という理由で、父が現場を見せてくれなかったが、本当の理由は、真相の隠蔽ではなかったのか。

その後、色々な個人商店等で、私の自転車にブレーキは付いているか、と尋ねられる様に成った。
散髪屋でも、喫茶店でも。
現在乗っている自転車は、当時乗っていた自転車とは別の自転車で、当時乗っていた自転車は段ボール箱に梱包した状態で、自宅敷地内の屋外に安置されているのだが、その段ボール箱の後部のホッチキスが外されめくれていた事があった。
後輪にブレーキが付いているか否かを確かめに来た者が居るらしい、と思った。
こういうのを経験して、2人組が、私の側に全く責めを負う点が無かった、という事実を、しつこく嫌がっている感じを受け、ますます2人組に対する蔑みの感情が増す。
嫌でも、それが事実なんだ。
お前らはダメな奴らで、俺は素晴らしい人だ。
お前らは労働者で、俺は学問の天才だ。

トラブルの日の出来事の内訳は、加害・被害に関しては、相手が私に被害を与えている。
危険な目に合わせた事についても、間違ってもいないのに謝らせ私の面目を不当に潰した事についても、対話の仕方においても、風邪を引かせたことについても、この日の自転車走行の内容を台無しにした事についてもだ。

なのに、それに対して私に報復を続けている、というのは、どういう了見か。
負っているのは、そっちだぞ。
ハラワタが煮えくり返るぐらいに腹が立つ。
つまりは、2人組は、私が間違えて無い、という事実を敵にしているのだ。
これは、自己矛盾である。
間違えなければいけないのなら、間違えても、しなければいけない事をしただけであり、それを間違いと言う事は出来ないからだ。

2006年05月12日の件については、その日の日記には、ほとんど何も書いていないので、ここに改めて書いておく。
上記の事件と同じ通りをロード自転車で南下中に、Google地図での位置≒34.469566,133.399419で、車道と歩道の境界を為している縁石の、乗り越え易い様に低く成っている部分を、前輪で斜めに乗り越えようとした際に、滑って転倒し、左手を路面に突いたら左肘が脱臼し靱帯断裂と成った。
転倒してから救急車で運ばれるまでの間、最寄りの自動車販売店に駆け込んで、床に倒れた状態で、受付の女性に、救急車を呼んで下さい、と何度も頼んだが、その際になかなか応じてくれなかった事も、不審であった。
救急車で運ばれて救急措置を受けた後、現場に戻ってみると、縁石にワックスが塗ってあるのではないか、疑わしく見えた。
それでも、当時は、罠を仕掛けられたと考えるのは考え過ぎだろう、という認識だったが、今では、罠を仕掛けられた可能性が高い、と思っている。
その後の何年にも渡る自転車走行経験で、置き石やパンクさせ罠器を多数経験したからだ。
マツダ無差別殺傷事件の引寺被告が嵌められた可能性なんて幾らでも有る、と思う。

学会発表の前に、という観点については、私は、未成年の頃にも、何か偉そうな事を言うと、それに対して「お前、良いんだな、どう成っても知らんぞ」と言う者が居た。
クラスメイトではない。
知らない人だった。
物騒な話である。
それは、不審な事に、丁度、本件の2人組の相似形だった。
自分の言った事は間違っていない、という風に責任を持って言えるのか、という意味なら分かる。
しかし、偉そうな事を言うんなら色々と難しい試験を受けてもらうぞ、という意味の事を言っていたのではないか、という風に、後で思う様に成った。
それは、とんでもない話である。
テニスの審判へのビデオ判定でのチャレンジなら分かる。
しかし、審判が正しいか否か、道路で審判に罠を仕掛けて、それに掛かるか否かで確かめる、という態度には全く合理性が無い。

このページの執筆に取り掛かってから、急に、パソコンが不審な異常停止を繰り返す様に成った。
そのため、1行書く毎に、アップした部分がある。
オートバイ不審エンジン音も数回聞こえて来た。