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< 職業をもって人の貴賤となすなかれ > | ||||||||||
このページの内容は下書きです。 ここで僕は人の内面を制限しようとしているのではない。 つまり、人の貴賎を職業で判断する考えを持つな、と主張するのではない。 僕の言いたいのはむしろその逆である。 僕の主張は、人の内面への不当な介入に対する反対であり、内面の自由を最も優先順位の高い権利の1つだとする法理の繰り返しに過ぎない。 にもかかわらず僕がわざわざここにそれを書くのは、自分の頭で考えれば分かる事を考えないために分かっていない人が多いからである。 僕の言いたいのは、一つには、自分の職位の方が高いと思っている者が、自分よりも職位の低いと思える相手に対して、自分の方が貴であり相手の方が賎である、と考えるように威力を伴った強制を行なう事が違法であり、そういう行為は人間として最も卑劣な行為の一つだから断じてそれを許すな、ということである。 ここで言う威力とは、強制を行なう側と強制を受ける側の一方または両方の職業に基づく強みや弱みを利用した脅迫の事である。 僕の主張は内面の自由の尊重であるから、他者が自分に対して「あなたの職業は下等だ」と考える事に対して、威力をもってそれを阻止しようとする事も、僕の批判の対象になる。 この点は本稿のタイトルに照らして逆説的であるかもしれない。 しかし、実はそうではない。 そのことをこれから示す。 貴賎という語は少し不適当かもしれない。 高等とか下等という言葉を使おう。 悪徳商法でもない限り、どんな下等な職業も賎ではなかろう。 僕の「職業をもって人の貴賎となすなかれ」という言葉の意味は、人に貴賎を押し付けるための道具として職業を用いるな、ということである。 これはどういうことかと言うと、一つには、職業従事による時間的ならびに体力的な消耗、つまり人的資源の消耗、を利用して、職業外活動を妨害する事はいけない、という意味である。 もちろん、僕は勤労の義務を否定するわけではない。 生活費を調達するために必要な最小限度の職業従事についてまで、職業外活動の邪魔になるからといって、そういう職業従事を要求してはいけない、と僕は主張するわけではない。 さらに僕の主張は、職業上の取引相手(雇用者など)の都合による不本意な分量の職業従事の全てを否定するものでもない。 そういうものの中でもやむを得ないものについては僕はそれを否定しない。 僕の主張は、たくさん稼いでたくさん消費するか、少ししか稼がず少ししか消費しないかは、各人の自由に属する事であり、やむを得ない事情によらず、人的資源の職業外利用を妨害する目的で、その自由を制限する事は許されない、というものである。 この考えは、自分の職業を下等と考え、それへの従事を必要最小限度に抑えて、残りの人的資源をもっと高等と思える事に投入する態度を容認するものであり、それをされると自尊心が脅かされるから、という理由によってそれを妨害する態度を許さないものである。 士気に関わる、とかいうのは、後者の範疇に属するから、やむを得ない事情とはみなされない。 実際問題としては、やむを得ない事情など無いのに、やむを得ない事情をでっち上げて妨害を図る、という態度が危惧されるが、こういう態度を許してはいけない。 内面の自由は、全くの内面だけの自由ではない。 内面は表情に出るし言動にも反映される。 したがって、内面の自由を全くの内面だけの自由と解釈し、表情や発言や行為を厳しく取り締まるならば、それでは内面の自由を認めたことにはならない。 表現の自由や選択の自由として法的に認められているものについてまで自由を認めて初めて、内面の自由を十分に認めたことになる。 したがって、特定の職業を下等と考え、その事を理由に、それを自分の職業として選択し、かつ、職業外活動を人生最大の目的とすることは、不当な妨害を受けてはいけない事なのだ。 先述した「逆説的ではない」というのは、こういうことである。 内面への不当な介入は、冒頭に述べたような、職位が上と自認する者が職位が下に見える者に対して行なうものでなくても、威力を伴った強制は全てそれであり、威力の内容如何によっては違法であるはずだ。 特に、職位が同程度だと感じ合っている者同士の関係において、皆を差し置いて一人だけ高きに至ろうとする者に対して行なう、いわゆる「足を引っ張る」行為は、これに含まれる。 自分だけ特別で皆とは違う優れた人間だから一人だけ高きに至ろう、と考え表現し行動することは、たとえそれが誇大妄想であったっとしても、その人の自由に属する事項なのである。 上記内面の自由を前提とするならば、職業選択に際しては、他者に下等だと思われることが予想される職業を、その事を理由に避ける行為は、それが可能な場合には自由である。 それなのにそうせず、そういう職業を自ら進んで選択するということは、あとで職業をもとに自分が侮蔑される事を覚悟した上でのことでなければならぬ。 そういう場合なのに、後で職業をもとに自分を侮蔑する者に対して怒り狂い違法な攻撃を仕掛ける者は、最初からそういう職業選択をしなければ良かったのだ。 それが選択の自由とそれに伴う責任というものである。 職業は自分の能力が少なくともどれだけか、つまり能力の下限を表わす。 その下限が非常に高い職業を選択することによって、自分の優秀性を他者に納得させ、自尊心の保護や満足を図る、という人生戦略は許される。 極少数の限られた職業については、職業の表わす能力の下限が著しく高いために、それを職業としているというだけで、ほとんど全ての他者が自尊心の脅威とは成り得ず、自尊心の観点から、快適な精神衛生環境を得ることが出来る。 さらに、そういう職業の業務内容が自分の人生の目標だと評価できる場合には、その活動とは別に生活費を稼ぐための人的資源の負担を必要としないために、その活動に専念でき、その活動における他者との競争に有利でもある。 しかし、そういう職業に就くことは著しく難しいし、仮にそれが出来たとしても、そういう人生戦略には欠点がある。 それは、職業というものは、その性質上、業務内容が自分の理想に完全に一致することは皆無であり、職位を維持するための不本意な労働ないし業務内容の偏り、というものを内包していることであり、多くの場合これは、著しく狭い領域に活動を特化させる必要性のために、知識に限って言っても、総合的な知識の優秀性の追究が犠牲になることである。 職業労働の短期締め切り性も業務の細切れ化をもたらす。 職業の欠点については別記する。 職業は能力の下限を表わすが上限を表わさない。 僕の「職業をもって人の貴賎となすなかれ」という言葉には、職業ごとに能力の上限を定め、それに反する考えを威力をもって禁止し、また、実際に各職業従事者の能力がその職業の所定の上限を超えないように威力をもって妨害を行なうことが、いけないことだ、という意味も含まれる。 人生の最大の目標となる活動を職業とせず、その活動に近似した職業の表わす能力の下限を自分の能力が超えていることをダイレクトに証明してみせる、という人生戦略も可能である。 僕の主張は、これを実際可能にしておくことが社会の義務である、という意味をも持つ。 下限の著しく高い職業も能力の下限を表わすのみで上限を表わさないから、こういう行為に対しては職位は自尊心を守るために全く役に立たない。 つまり、このレベルでの競争においては職業は、活動時間を多く取ることが出来るかどうか、という点ぐらいにしか関わらない。 この点は馬鹿に出来ないが、時給の高い独身パート労働者なら、活動時間でもプロに引けを取らないし、先述した職業の欠点や個人の天才というものまで考え合わせると、妨害さえ受けなければ、このダイレクト殺法は無謀ではないばかりか、プロに成るより自慢のために有利ですらある。 ダイレクト殺法はある意味、飛車角落として将棋に勝って御覧にいれます、というものだから、成功すれば面目躍如たるものである。 その分自慢効果が大きいのである。 官職のようにプロでなければ活動できない分野もあるが、そうでない分野もある。 他者に対して自分の相対的優位を認めさせる行為の中でも、表現の自由の範疇に属する表現によって自慢する事は、それがいかに有無を言わせぬぐらいの強い説得力を持つものであっても、威力を伴う不当な強制とは言えない。 逆に、そのような自慢を威力をもって妨害することは威力の内容如何によっては違法である。 したがって、選択の自由が認められている事項について選択するに当たっては、他者は可能な限り自慢と侮蔑に都合の良い選択を行ない最大限自慢侮蔑するものと仮定して、それに対抗して負けないように選択する事は当然の権利である。 利他的理由により自発的にそういう選択をしないことは、それ自体は善であるが、他者にも自分と同じ選択をするよう強制することは、利己的な選択をする事よりももっと悪である。 他者が最大限自慢侮蔑すると仮定するなど馬鹿げている、と主張する人が居るかもしれないが、そういう人は例えば24日@2004年09月@日記を見て現実を知るのも良かろう。 また、最大限自慢侮蔑する他者など全く居なかったとしても、そういうものが居ると仮定しての選択が禁止されるわけではない。 フルタイム職員にはそれに伴う義務というものがある。 フルタイム職員には成るがその義務は負わない、という態度は許されない。 しかし、その義務を免れるためにフルタイム職員に成らない、という選択は許される。 結婚して子を設ければそれに伴う義務を負う。 結婚して子を設けるがその義務を果たさない、という態度は許されない。 しかし、その義務を免れるために結婚もしないし子も設けない、という選択は許される。 結婚生活を維持するためにフルタイム職員に成る必要がある人は多い。 しかし、フルタイム職員に成るのを避けるために結婚しない、という選択は許される。 独身パート労働者とは、この選択の自由を活用した合法的な生き方である。 こういう労働者の雇用促進は、たとえば男女雇用機会均等化と同じくらいに重要だと僕は考える。 つまり、男女雇用機会均等化が男女差別の撤廃であるのに対して、フルタイムとパートタイムの差別の撤廃も同じくらい大切だと僕は主張するのだ。 この意味は、パートは副業のみ、とするのではなく、労働者の任意意思によってパートを職業に出来なくてはいけない、というものである。 このことは、パートの時給を上げよという事であるから、パート労働者の職場進出が脅威となっているフルタイム労働者にとっても好都合であるはずだ。 つまり、パート労働者とフルタイム労働者が労働市場において互角の競争力を持つようにパート労働者の労働条件を改善せよ、ということである。 モラルハザードについて。 選択の自由を盾にして強引にどんどん進んで行くと、周囲からモラルハザードを理由とする非難の声が聞こえるようになる。 みんなが独身パート労働者に成ると社会は成り立たない、という風に。 しかし、そんな事を言うんだったら、みんながパン屋さんに成ると社会は成り立たない。 だからと言って、勝手にパン屋さんに成るな、とは言えないはずだ。 独身パート労働者は非難されるがパン屋さんは非難されない、という事の背景には、独身パート労働者という選択が誰にとっても得な選択だ、という考えがある。 僕はこの考えを論駁する事によってモラルハザードとの言い掛かりを払い除ける。 僕の言う独身パート労働者は時給の高さを賃金総額の大きさに結び付けるのではなく、労働時間の短さに結び付けるものである。 したがって貧乏である。 はたして世の中に金銭的裕福さや生殖よりも自分の才能の開花の方が得であると感じるくらいに自分を天才だと思う人がどれくらい居るだろうか? 少なくとも言える事は、天才は希少である、という事である。 これに誇大妄想人口を加算してもたかが知れているだろう。 したがって、僕の言うような独身パート労働者という選択を得と感じるのは、ごく僅かの人間である。 実際に独身パート労働者が原因でモラルハザードが起こったなら、それは、そのごく僅かの人間以外の人が独身パート労働者に成ったからであり、非難されるべきはそういう人たちである。 競争力の不足によって不本意な職業選択が避けられなかった人にも、職業を理由とした侮蔑に反駁するための自慢を職業外活動として行なう自由はあるが、そうする事が自分にとって得だと考える人は少ないだろう、という意味が、独身パート労働者を得な生き方だと考える人口の上記見積もりには含まれる。 また別稿に述べるように、職業においては人は支配されるから、フルタイム労働者と言えど、人生の全てを職業に費やす事は、本人が望まない場合には、強いられてはいけない。 支配されるだけの人生が強いられる事は民主主義に反する。 本稿のタイトルに僕はこういう意味をも込めた。 別稿に述べるように、職業間には厳然とした栄誉の高下差があると僕は考えている。 しかし本稿では、それを根拠にして論を進める事をしなかった。 本稿では、その高下差に関わらず成り立つ論理のみを提示した。 そのため、その高下差に異を唱える人に対しても本稿は説得力を失わない。 種明かしをすると、そうするために本稿では、職業間の栄誉の高下差の実際を論拠として全く採用しなかったのである。 |
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