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このページの内容は下書きです。

現代日本人は「プロ」という言葉を頻繁に使う。
誰々はその道のプロだ、という風にだ。
英和辞典で「professional」という単語を引くと「(知的)職業人」「(技術)専門家」「くろうと」「職業選手」という訳が出て来た。
「知的」とか「技術」とかスポーツを示唆する「選手」という限定語に多くの人が意外性を感じるのではなかろうか?
なぜなら日本人の多くは「それで飯を食ってればプロ」という判断基準を持っているからだ。
それで飯を食ってなくても「くろうと」なら「プロ」という点にも注意しなくてはいけない。
まあ、それはそれで良いとして、現代日本社会においては「プロ」であることがその分野における至高の価値基準であるかのように言われ、誰もそれに異議を唱えようとしない。
しかし、この「プロフェッショナリズム」はアメリカ合衆国によって日本にもたらされたものであり、プラグマティズムと並んでアメリカ合衆国が確立した「新しい」価値観であることに注意しておくべきであろう。
アメリカがこの価値観を確立するまでは、スポーツに関してはイギリスの「アマチュアリズム」が支配的であった。
近年までオリンピックはこの理念を貫いて来た。
イギリスにおいてスポーツは貴族階級者が、下層階級者が持つ事の出来ない閑暇を、有意義に過ごす際の一つのテーマであった。
それに対してアメリカ人はスポーツを職業の一つにする事を提案し実行した。
その結果アメリカでは下層階級出身者が、イギリス貴族の高貴なテーマであったところのスポーツに明け暮れて、かつ生計を立てる事が出来る様に成った。
まずこれはプロフェッショナリズムの素晴らしい点の一つである。
さらに、プロフェッショナリズムはアマチュアリズムによるよりも強力な選手の創出をもたらした。
これもプロフェッショナリズムの素晴らしい点である。
スポーツの分野において「アマ」は「プロ」の敵ではない。
しかし、ここで視線を「スポーツ」から「学問」「芸術」の方に向け直してみると、「プロ」が「アマ」よりもいつでも優越しているとは必ずしも言えないことが明らかになる。
「学問」「芸術」も「スポーツ」と同様に、貴族階級者が、下層階級者が持つ事の出来ない閑暇を、有意義に過ごす際の一つのテーマであった。
同じ研究テーマについて「プロ」と「アマ」を競争させると、学問や芸術の分野においても「アマ」は「プロ」に及ばないであろう。
しかし「アマ」には、「プロ化されていないテーマを攻める」という「プロ」が指をくわえて見ているしかない戦略をとることが可能だ、という利点がある。
そしてその様なテーマこそが「プロ」の業績に比して桁違いに大きい成果をもたらしうる可能性を秘めている。
これはプロフェッショナリズムの欠点の一つであり、科学史研究家によって「ある分野についての門外漢がその分野に顕著な業績を残す事しばしばである」と述べられる事によって裏付けられている。
わたしはここでプロフェッショナリズムを批判した。
何て事だ!プロフェッショナリズムが批判されるなんて!
「プロこそ最高」という凡庸な俗説に毒された読者の方はショックを受けるだろう。
しかし、私の「プロ批判」はこれで終わりではない。
もう一つ、プロフェッショナリズムに決定的な一撃を食らわして、この小論を閉じたいと思う。
その一撃とは、「個人プロ」には長期的展望に立った仕事が出来ない、という批判である。
例えば聖書、あなたがこれを一つの文学作品と認めてくれるとすれば、一人の作家が一生かけて聖書を著しその人にはそれ以外の業績がなかったとしても、その作家は他のベストセラーを多作する作家より格上の孤高の存在として認められることでしょう。
この点に異論はないと思います。
では、私の職業は一生かけてある一冊の書物を書くことです、という主張が現実社会で通用するでしょうか?
通用しません。
なぜなら、一生かけてある一冊の書物を書くこと、が職業であるためには、その行為に対して前金で一生分の生活費を払ってくれる人が居るか、一ヶ月ごとに一ヶ月分の生活費を払ってくれる人が居るか等しなくてはいけないのであって、そんな支払いをしてくれる人は居るはずがないからです。
したがって「プロ」の仕事は短期決戦の仕事に限られることになります。
死ぬ間際まで結果が出ない仕事を職業にする事は出来ません。
すなわちライフ・ワークは、途中で進行状況が確認でき、途中でやめてもその仕事にはそれなりの価値があるものに限って、職業に成り得るのです。
全人生をバラバラの小物の創出にではなく単一の究極的価値創出に統一的に動員し切る、これを最善の人生と心得る私にとって、なしうる選択はアマチュア活動によってそれを成し遂げる、という選択のみであって、プロフェッショナリズムはこれに矛盾する劣った価値観なのです。
最後に一応、聖書が複数の著者によって著された事を私が知っているという事を、コメントしておきます。

職業においては人は支配される。最高の創造的な活動は支配されていない自由な状態において生じる。
また、そういう状態においてなされた業績は全て本人の名誉と成るが、支配下での業績の名誉は支配にも分配される。