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このページの内容は下書きです。

職業に貴賤無し、という誰が言い出したのか知らない建て前は、実質的不平等実現の道具になっている。
このことを理解するためにまず人物に対する世間の評価がその人の職業および職業上の地位によって決まるという事実を認めなければならない。
この事態は必ずしも回避不可能な必然ではない。
これは活動時間の大半を職業労働に費やさなければほとんど全ての人は生活が成り立たないという現状においてのみ成り立つ事実である。
もし仮に週休2日ならぬ週労2日をルールとして自由競争する社会を作って、それで全ての人の生活が成り立つならば、人物に対する評価は職業に特化したものにならない。
職業および職業上の地位ではなく職業労働をしていない残りの5日で如何なるアマチュア活動をして如何なる成果を上げるかが人物評価のメイン・テーマになることだろう。
ではあるが現実に話を戻すと活動時間の大半を職業労働に費やさなければいけないのが現代社会だ。
したがって、もし職業に貴賤があるならば、貴とされる職業に就いている人と、賤とされる職業に就いている人との間に不平等が存在するではないか?という批判が妥当してしまう。
この批判を交わすために、本音では貴とされる職業に就いている人にとって「職業に貴賤無し」の建て前が必要に成って来るのだ。
建て前において「職業に貴賤無し」であっても本音においては「職業に貴賤はある」それが現実だ。
市民レベルで言うと「医者」および「弁護士」が「貴」であり、「土方」や「工場労働者」および「農林水産業現場労働者」が「賤」に成るだろう。
「医者」や「弁護士」より上は何かということになると意見の分かれるところかもしれないが「国会議員」や「何とか省の事務次官」といった辺りになるだろう。
官尊民卑の思想だ。
僕の場合は少し価値観が違ってて、学問が最高、芸術がその次、3番目はスポーツ、その他はそれ以下、という価値観を持っている。
「医者」も「弁護士」も実務家だ。
それに対して「医学者」や「法学者」は理論家だ。
実務家は与えられた理論を適用して社会的損失の埋め合わせをする雑用係に過ぎない。
一方理論家はもっと高い視点から「あるべき法体系は如何なるものか?」などといった有意義な問題を研究する。
実務家が雑用に追われている最中にだ。
僕は「医学」と「生物学」の関係を「工学」と「理学」の関係に似たものとして捉える。
僕の価値観は「工学」よりも「理学」、したがって「医学」よりも「生物学」を高く評価する。
町医者が風邪の患者を捌くのに忙殺されている間に「生物学」の研究者は遺伝子に関する研究など有意義な研究を行っている。
実際歴史を見てみると、「偉人」とされる人が如何なる業績によって偉人とされるに至ったかが良く分かる。
十中八九が「学問」だ。
一生誠実に精魂込めて「土方」やっても「偉人」には成れない。
また世間一般で言われる「高い地位にある人」の評価はその人の在任期間終了と共に消え去る。
それに対して「学問」で業績を残せば未来永劫「偉人」として讃えられる。
「職業に貴賤無し」を説く騙し野郎に「本音においては職業に貴賤あり」の現実を突き付けて、本音において「賤」とされる職業に従事する人ほど、その人物が職業のみによって評価されることの無いように、そして、その様な職業に従事する人ほど自分の職業に対して熱心さを要求されないように、要求しなくてはいけない。
職業の貴賤に関する上にあげた本音の社会通念に真っ向から挑戦しているのがNHKの「プロジェクトX」だ。
この番組の視聴者に与えるインパクトは大きいに違いない。
なぜなら私自身この番組を目に涙を浮かべながら見たこと、いや、涙を流しながら見たことがあるからだ。
この番組では、決して「世界の偉人」に成る事は出来ないとはじめから分かっている職業に従事していた人達が主人公になっている。
そして彼らは偉い。
どうしてこの人たちよりも歴史上の「偉人」の方が偉いとされるのか考えさせられる。
「プロジェクトX」の主人公達は絶体絶命のピンチに追いやられ、それを卓越した能力で乗り越える。
ではあるがやはり歴史に残る業績を残した「世界の偉人」はそれらの人よりも偉かった、と感じる根拠がどこかにある様な気が漠然とするのも否めない。