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このページの内容は下書きです。

法律を根拠として考えるレベルの話ではなく、法律の根拠を考えるレベルの話をしてみたいと思います。
考察の対象としては著作権や特許権、つまり、いわゆる知的所有権をとりあげます。
知財所有の問題点は、知財と物財の性格の共通性の分だけ、物財所有の問題点と重複する。
したがって、知的所有権に特有の問題点を明らかにするためには、知財と物財の性格の本質的違いを明らかにする事がまず第一に必要である。
知財と物財の最も本質的な違いは、重複所有の可否であろう。
知財は重複所有が出来る。
つまり、同一の知財を複数の人や法人が重複して所有する事が出来る。
それに対して物財は重複所有が出来ない。
この違いの鍵を握るのが複製であり、知財は複製によって自分の知財を減ずることなく他者に与える事ができるのに対して、物財は自分の物財を他者に与えると自分の手もとにはその物財は無くなる。
著作権は英語ではcopyrightであり、この直訳は「複製権」である。
物財の複製が出来るか否かは技術的問題であり、物財だって複製によって等形等大物の重複所有が原理的には可能である。
しかし、その重複所有は全くの同一物の重複所有ではないので、物財の重複所有はやはり不可能である。
ただしここに僕の言う所有とは、重複所有と言うときには、単に自由に使用できる状態にする、ないしは勝手に使用する、という程度の意味であって、これには、自分名義で勝手に発信することも含まれるが、知的所有権の意味内容における所有とは違う。
知的所有権と言うときの所有は、exclusiveな、つまり排他的な所有である。
物財については、重複所有が出来ないので、所有権としては、強い使用権を設定するだけで結果として排他的所有権が実現されるが、知財については、重複所有ができるので、所有権として、強い使用権を設定するだけでは不十分であり、排他的という事を直接盛り込む必要がある。
また、同と等の区別は誤謬だという見解に僕は到達し、そのことが僕の本に書かれているが、現段階でこの見解を法実務に反映させる事はラディカルに過ぎると思うので、ここでは、個々の物財は唯一無二である、という考えに立脚する。
分かり易く言うなら、ある物財が親族の形見である場合、それが破損したら、たとえそれと大きさや形や機能が全く等しい物財を代替物として与えられても不満が残る、との主張は尊重に値する、ということである。

さて、知財と物財の違いについての上記認識に基づき、物財の窃盗による被害と対比しながら、知財の窃盗による被害とは何かを考えてみる。
物財は窃盗を受けた分だけ減るのに対して、知財は、無断での複製を受けても、その事によって自分の知財が減るわけではない。
では、知財の窃盗による被害は存在しないのか?
明らかに存在する。
それは競争力や相対評価の低下である。
つまり、自分しか持っていないノウハウを駆使して商品を作り市場競争するのと、そのノウハウを複数者が持っている状況下において市場競争するのとでは、明らかに後者の方が不利だ、ということである。
知財の窃盗を受けると、状況が前者から後者へ移行する分だけ自分の競争力が低下する。
この事情を汲んで、法律においては知財の窃盗は不正競争行為の中に位置付けられているようだ。
また、芸術作品等の著作物の優秀性に付随する名誉に関して、その作者が自分だけであるのに比べて、その作者が複数である場合の方が、自分の名誉は小さい。
したがって、この場合も、知財の窃盗を受けると著作物の優秀性に付随する自分の名誉が低下する。
まして窃盗者が元祖を名乗る場合には原作者の被害はもっと深刻だろう。
このように、知財の窃盗には被害が伴うので、知財の窃盗は窃盗と認識されねばならない。

では、知財についてはどこまでが窃盗なのか?
これについては、法律の指し示す基準の妥当性を信じるものとし、ここでは、知的所有権を尊重すべき理由と、そうすべきでない理由の両方を挙げたいと思う。
つまり、そもそも、どこまでが窃盗なのか、という問題が問題として存立する基盤を明らかにしようというわけである。知的所有権を尊重すべき理由と、そうすべきでない理由の、どちらか一方しか存在しないならば、そもそも、どこまでが窃盗なのか、という問題の答えは自明であり、この問題は問題と呼ぶに値しない。
知的所有権を尊重すべき理由は、知財の窃盗による被害についての上記指摘の中に見出されよう。
したがって、ここで考えるべきは、知的所有権を尊重し過ぎるべきでない理由の方である。
この理由は本質的には、利用の不可避性、だと僕は思っている。
物財の場合には、他者の物財を奪い取らなくても、自分も別途同じ物財を購入すれば用は足りる。
これに対して、土地の所有の場合、自分の居住地を後から来た他者の所有地が完全に取り囲むなら、自分は生活して行く上で他者の所有地に侵入する必要がある。
そうしないと買い物にも職場にも行けない。
したがって、この場合には、自分の居住地を完全に取り囲むような土地所有を他者に対して禁止するか、あるいは、所有権の内容を、侵入を許すようなものに制限する必要があろう。
実際法律がこうなっているかどうか僕は知らないし、土地は知財ではないが、僕の言う利用の不可避性とはこういうことである。
空港や道路やダムの建設のために行政が住民を強制的に立ち退かせる事が出来ることも、利用の不可避性から来る土地の所有権への制限だと言える。
知財について言えば、特に学問的業績について、利用の不可避性という事が言えると思う。
重要な業績であればあるほど、後続の研究者は、学問を進歩させるにあたって、そこを避けては通れない。
そして、重要な業績であればあるほど、それに付随する名誉は大きく、その分だけ窃盗を受けた場合の被害は深刻なので知的所有権の保護の必要性が大きい。
物財におけるよりもむしろ知財において利用の不可避性と所有権が衝突することは、冒頭に述べた物財と知財の本質的違いに照らして、逆説的ではある。
それだけ物質的に豊かな世の中だということなのか。
利用の不可避性は、知財と物財の本質的違いではないので、物財についても利用の不可避性が所有権と衝突する事は、あり得ない話ではない。

知的所有権への制限の理由が利用の不可避性であるなら、知的所有権のうちで、この理由によっては否定できない部分は、権利としてシッカリ保障されねばならない。
学問においては、これは引用の表示義務としてルール化されている。
つまり、論文執筆においては、そのために自分が依拠した先行の著作を著者名まで含めて表示しなくてはいけない。
このルールは、利用の不可避性の観点から否定されないし、また、名誉の帰属先がウヤムヤになるのを防止する事によって先行の著作者の権利を保障する働きをする。
引用の表示を行なうという事は、自分の著作物の中のどこまでが自分の創造によるもので、どこまでが他者の創造によるものかを表示するということであり、これを行わないということは、意図してであろうとなかろうと、読者に、全て自分の創造によるものだとの誤解を与える可能性を残すということである。

次に僕は、利用の不可避性という基準の曖昧さを指摘する。
そもそも、利用が不可避であるか否かは目的によって変化する。
つまり、目的が与えられて初めて、その目的を達成するために利用が不可避であるかどうかが決まるのであって、目的を指定せずに利用が不可避であるかどうかを問う事には意味が無い。
したがって必然的に、目的がその達成を望む者の当然の権利に属する場合には、その目的を達成するために利用が不可避である知財の利用は許されねばならぬが、目的が、それ自体禁止されていなくても、公正な競争に勝利した者にのみ達成可能なものである場合には、その目的を達成するために利用が不可避な知財を独占する権利は、つまり、特定の者以外に対してその知財の使用を禁止する権利は、公正な競争のルールの中に含まれていても良い、ということになる。
こうして、どこまでが窃盗か?という問題は、どの目的までが当然の権利か?という問題に還元される。
それでも、この問題の答えの如何に関わらず、利用の不可避性の見地からでは少なくとも引用の表示義務まで否定する事は出来ないであろう。

利用の不可避性という観点につながる意見としては、西沢潤一氏の「発明は発見である」という見解が印象に残っている。
僕はこれを子供の頃テレビで知った。
テクノロジーにおけるノウハウは、どうやれば上手く行くかという法則性として、人がそれに気付く前から存在しており、人がノウハウを作り出すのではない、という認識である。
この分だけ発明は土地に似ている。
土地も所有者によって作り出されたのではなく、もともと存在していたものである。
土地の利用の不可避性はこの事に由来するので発明にも利用の不可避性があるはずだ、と予期される。
もともと存在していたものを排他的に独占する事は占拠である。
学問の論文が学問を進歩させるために利用が不可避であるのと同様に、発明はテクノロジーを進歩させるために利用が不可避だ、と言える。
しかし、学問の論文と違って発明は、経済活動の一部分であり、金銭的利害に直結するので、所有権を保護すべき理由が、学問の論文に対するものよりも強い、と考えるべきであろう。
これら利用の不可避性と発明者の権利のせめぎ合いが時限付きの強い所有権としての特許権に妥結している、と僕は解釈する。

論文の執筆が経済活動でない、という事情は、論文誌を発行する諸学会が営利団体ではない事に由来するのであって、論文で儲けてはいけない、という法律があるわけではない。
論文誌に自分の論文が掲載されても印税は入って来ないが、商業出版社が論文誌を刊行し、そこへ投稿する学者に印税が入る、という仕組みを作っても、そのことに違法性は全く無いのだ。
だから、学者が学術書を書いてそれを売って儲ける事は許されるし、既にそういう本はたくさんある。
これは倫理的に悪いことでもない。
優れたモノグラフの多くが、商業出版されている。
また、私立の教育機関の行なう教育活動は、出版まで含めて経済活動であり合法である。
しかし、今のところ、諸学会の発行する論文誌に掲載されてしかるべき論文は、商業出版されずしかるべき学会の論文誌に投稿されているようである。
その理由は、一つには、そういう論文誌に自分の論文が掲載される事の名誉が印税収入の魅力を超えることであり、もう一つには、論文誌の刊行が商業出版としては採算のとれない言わば慈善事業であることだろう。
逆に、学会はモノグラフを出版する力に欠けているようでもある。
職業学者の賃金の少なくとも一部が研究活動に対する報酬と見なされる場合にも、それは、論文を売って得たお金ではなく論文執筆のための研究活動を支援する助成金と解されるべきものである。
学問の研究は本来あくまで慈善事業なのである。
法律的には学問の論文の執筆は小説家が小説を書くのと何ら変わるところはないのかも知れぬが、実際には学者は小説家より高潔な倫理規範に従う。
その一つは印税収入を放棄する事であり、もう一つは、引用の表示を極めて克明に行なう事である。
引用の表示は法律的には必ずしも義務ではないのかも知れぬが、引用の表示義務を自らに課す学者の態度は、全ての著作家にとって見習うべき良い模範だと僕は思う。

著作についても西沢潤一風の言い方が出来るかもしれない。
例えば作曲について。
曲を小数に喩えよう。
すると、作曲とは無限にある小数の中から一つの小数を選び出す事に喩えられる。
その小数は選び出される前から存在しており、作曲者によって作り出されたものではない。
つまり、作曲とは選曲である。
これは屁理屈だろうか?
必ずしもそうではない。
と言うのは、悪意無き作曲家が、既存のフレーズと重複するフレーズを、模倣を意識せずに選んでしまう事が実際にあるらしいからだ。
所詮音の組み合わせには限りがあるから全てのパターンはもう出尽くしちゃってるよ、と言う人すら居る。
僕はこうまでは思わない。
僕は音楽の世界には無限の可能性を感じている。
しかし、作曲とは選曲である、というのが屁理屈ではないとも思うのだ。
すると、曲についても利用の不可避性が問題となり、その分だけ著作権が制限されねばならぬだろう。
このことは、既存の著作物との近似性が非常に強くないと、部分的に真似たぐらいでは窃盗とは見なされない、という基準に反映されているだろう。

法律の指し示す基準が、特許として認定されているノウハウについて、それに依拠せず独自に同じノウハウを考えた者に対しても、特許権者の使用禁止権や特許料徴収権が及ぶものかを、僕は知らない。
他の知的所有権についても。
後で調べておきたいと思う。
特許権がそこまで強いものならば、特許法に対する正当化としては、ここまでに僕が書いた理屈だけでは不十分であり、窃盗の立証困難性からの有権者の保護や発明を奨励する政策といった理由まで挙げる必要があろう。
特許法が発明を奨励する政策の一環である、とは聞いたことがある。
窃盗の立証困難性も切実な問題である。
物財についてはその唯一無二性が窃盗の証拠となるのに対して、知財については独立に製作したとの弁解を反駁するのが困難だからだ。
それでも、近似性が非常に強く独創性も大きい知財については、それ自体が窃盗の証拠と見なされるだろう。
しかし、独創的でない知財については、独立に製作したとの弁解を反駁する根拠として、近似性が非常に強いことだけでは不十分な気がする。
そのような知財は、窃盗の被害も小さいが、だからと言って窃盗を許可して良い、とは言えない。
金銭では額がたとえ1円であっても窃盗は窃盗として厳しく断罪されるのだから。

最後に、知的所有権にまつわる損得勘定について述べます。
これについてトヤカク言う人が居るからです。
まず、過優遇か、という点について。
開発にはコストがかかるからそれに報いるために特許権を設定する必要がある、という弁解もありますが、特許権によりもたらされる収入は、リスクまで含めても開発コストをはるかに凌駕する場合が多いでしょう。
ほとんどノーリスクで開発できる場合も多いと思います。
したがって僕は、特許権をリスクやコストの負担に対する報酬とは考えません。
そこで行なわれた知財の生産に対する報酬と考えます。
こう考えれば、報酬が大き過ぎる、とは言えない事が分かります。
損害賠償というものを僕は否定しませんが、生産に対する支払いではなく負担に対する支払いを経済の中心と考えるなら、経済水準を表わすのは国民総生産ではなく国民総負担とでも呼ぶべきものになるはずで、これが豊かさを表わすとは到底考えられません。
そんなものを追求すれば、みんなでこぞって損を競うわけですから、社会はどんどん貧しくなって行く事でしょう。
誰かが損をし過ぎるからいけない、という考え方を僕は認めますが、誰かが得をし過ぎるからいけない、という考え方に僕は強く反対します。
メディアのただ乗りを指摘する人も居ます。
つまり、マスメディアに広告をさせるには膨大な広告料を支払う必要があるのに、マスメディアの取材の対象となれば、ただで自分の広告をさせることができる、これはけしからん、という考えです。
これも、誰かが得をし過ぎるからいけない、という考えなので、僕はこういう考えには強く反発します。
著作権については、これによる収入が負担に対する報酬ではない、という事が特に言えるでしょう。
著作者にとって、自分の作品が広く流布されることは、負担ではなく、お金を払ってでもして欲しい事であるからです。
したがって、この場合の収入は負担に対する報酬ではなく貢献に対する報酬であって、その貢献は、消費者にとってのみならず、著作者自身に対する貢献でもあるのです。
だから、著作者と消費者の関係として、どちらが売り手でどちらが買い手となるかは、自由な交渉によって決まるのであって、一概に本来はどちらが売り手でどちらが買い手であるはずだ、と断じるのは間違いです。
売り手になることが出来た人は、公正な競争において勝利したのであって、不正なただ乗りをしたのではない。
ある場合には、広告料と著作提供料が釣り合って、金銭の交換を伴わない相互協力、というものも成立します。
楽曲を公演ではなく自室で一人で演奏することは、著作権の観点から禁止されていないと思いますが、これなんかは、この釣り合いの領域に属するのかもしれません。
ただし、この場合には、広告という言葉の意味を、消費者個人が演奏する方がその消費者に対して作曲者がより良く広告される、という風に解します。