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このページの内容は下書きです。 まず直接証拠と間接証拠の概念を説明します。 直接証拠とは、物理学においては、たとえば、権威ある文献に現れる数式の成否を自分で計算用紙でチェックして食い違いが見つかり、自分の計算に誤りがない場合、その計算過程および結果は、件の権威ある書物に誤りがあることの「直接証拠」となります。 一方、マイケルソン・モーレーの実験によって光の進む速さは方向によらないことが確認された、という情報を受け入れるとき、私達は、権威者の言うことだからその通りなんだろう、と判断して、自分で追試実験を行なおうとはしません。 このとき情報の正しさを根拠付ける証拠は情報発信者の学問上の権威であり、これを僕は「間接証拠」と呼びます。 直接証拠と間接証拠の関係は、直接証拠は間接証拠よりも優先される、という関係です。 そのため、昔の偉人科学者は何でも自分で実験して確かめないと気が済まない性質を持っていた、先生の言うことを鵜呑みにしなかった、ここが偉いところだ、と言われます。 しかし現代の物理学のように高度に発達した学問においては直接証拠のみを判断基準に用いて学習することは不可能です。 現代の高エネルギー物理学では、理論の成否を判定すべく行われる実験には大規模な実験装置が用いられます。 その様な実験装置を私人が勝手に利用することは許されませんし、学習者の全てがその様な装置を独力で構築する事は経済的にも技術的にも不可能です。 したがって、現代の物理学を学ぶ私達には直接証拠だけでなく間接証拠をも証拠として採用することが実際問題としては要求されます。 間接証拠を採用すると直接証拠だけに頼るのに比べて知識獲得のスピードが格段にアップします。 そのかわり間接証拠のみに頼る多くの学習者は自分の学んでいることが空疎な迷信かもしれないというリスクを負うことになります。 事実、中世の学習者は権威者の著した膨大な量の紙くずを勉強して果てたわけですから。 私の場合、実験物理学の成果については、それらを間接証拠を根拠に無批判に採用し、理論物理学については権威ある文献についても厳しい目でチェックを入れます。 その結果、世界をリードする一流学者の文献に多数の誤りを発見しています。 理論書についても間接証拠のみに頼る人は僕の見付けた誤りの部分にドンドン毒されて行くことでしょう。 誤りが繰り返し丸写し伝承され、その事によりその誤りの溝がますます深まり、後続の学習者がそこにはまり込んで脱け出す事がますます難しくなって行く、このことを指して私は伝統の轍(わだち)と呼びます。 伝統の轍は極めて強力であり、これを矯正するには一流の理性が必要とされる事を、断っておかねばなりません。 並みの理性では、自分が伝統の轍にはまり込んでいる事を自覚する事すら出来ないのが普通です。 能率良く正しい知識を獲得するためには直接証拠と間接証拠の適切な取捨選択、本物を見抜く力、が必要です。 この取捨選択は、伝統の轍が非常に強力であるだけに、非常に困難です。 このように直接証拠は非常に大切なわけですが、間接証拠に対する配慮も、権威者に対してのみならず、日常のコミュニケーションにおいても、無視して良いわけではありません。 自分の頭で考えることが科学の原則だ、最終的に真偽を判断するのは個々人だという点については、全くその通りです。 真偽判断の学問的方法は多数決ではありません。 しかし、学問においても、真偽判断の経済性・能率の向上には努めなければいけません。 それが教えてくれる人に対する礼儀だからです。 自分と相手の意見が食い違い、その後良く話を聞いてみると相手の意見の方が自分の意見より正しいことが分かった、という経験を同一人物に対して多数回繰り返したならば、その事実を、その人とのその後の会話においては、間接証拠として尊重する必要があります。 その様な謙虚さを欠く無反省な敵対と相手による説得の成功の繰り返しが相手に負わせる手間と不快感は、相手にとっては全くもって負わされるいわれのない不経済だからです。 その様な相手に対してであっても、間接証拠よりは直接証拠の方が優先されねばならぬからには、要はどちらが正しいかであって、相手の方が間違っている場合には、いきなり「間違ってますよ」と主張する事から始めても良いけれど、これは賭けであり、その様に主張して後、またしても自説が誤っている事を納得させられた場合には、性懲りも無く同じ間違いを繰り返して申し訳ない、と謝罪すべき立場におかれる事をこちらは覚悟せねばなりません。 また賭けであるからには、摩って良い回数には自ずと限度があり、ある程度以上同じ間違いを繰り返せば掛け金が底をつく、と考えねばなりません。 真の謙虚さとは、敬語表現を使うことでもなければペコペコ頭を下げる事でもなく、自分が過つということをいかに良く知っているかなのです。 |
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