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< 才能とは欠乏感である >

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この事に気付くまでに随分と時間がかかった。
しかし、これは真実であり、実に、才能とは欠乏感なのである。
才能に色々な種類があるとしても、つまるところそれら全ては欠乏感なのだ。
僕自身、知的欲求が充足してしまったときに最も強く、自己の才能の枯渇の危機を感じた。
才能とは欠乏感であり、天才とは、万人が不足を感じないところで不足を感じる感性である。
まず最初に欠乏感があり、それを埋めるために勉強する。
凡庸とは、その勉強において標準が与えてくれるもので充足してしまう事であり、天才とは、標準が与えてくれるものによってもなお残る欠乏感である。
この欠乏感を定式化すれば問題となり、その問題を解けば、あるいは解かなくても、問題提起するだけでも、業績となる。
欠乏感は規範によって生じる。
現状が規範に満たない場合、そこに欠乏感が生じる。
したがって、天才とは、標準よりも高い規範を有形であれ無形であれ持っている事に等しい。
言うなれば、天才とは範型保持者である。
標準よりも高い規範とはどういうものか、美人を例にとって説明する。
美人の基準というものは、先に理論があって、その後に実例がついて来る、というものではない。
先に、知っている範囲内で最も美しい個人、というものが具体的に存在し、それを基にして、人は美人の基準を作る。
したがって、知っている範囲内で最も美しい具体的個人、というものを超える美人、というものを考える事は一般には不可能である。
そういうものを知る唯一の手段は、もっと美しい具体的個人に出会う事だけだ。
そういう具体的個人に出会ったときに初めて、人は、もっと美しい人とはどういうものなのかを知る。
そうでなければ、理論が先にあるのであれば、人はマネキン人形に恋をするはずだ。
マネキン人形は美人として完全無欠だが、チッともそそらない。
そこでマネキン人形に修正を加えるとすれば、修正する人は、美しい人間女性の具体的個人を模倣する事になる。
したがって、その修正によっても、モデルになった具体的個人の美しさを本質的な点で超える事は出来ない。
標準より高い規範を持つ事が一般には不可能である事が、この例から分かると思う。
つまり、喩えて言うならば、天才とは、見た事も無い美人像を漠然として持っている人であり、それに照らして、誰を見ても、美人として不十分だ、と感じる感性である。
これは一般には不可能であり、その現出は奇跡である。
天才の持っている範型が有形であるとは、言語等によってその範型を公に知らしめる事が出来る事を言い、その場合には、範型を知らせる事により天才の使命は終わる。
天才の持っている範型が無形であるとは、その範型に適合する具体を天才自身が創造してそれを模範として示す事以外の方法によっては、範型が如何なるものかを公に知らしめる事が出来ない事を言う。
天才が模範創造者(パラダイム・クリエイター)として現出するのは、この様態においてである。