since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 学問 >
< 持論 >
< 約束の前提 >

このページの内容は下書きです。

聞くところによると、イスラム教社会では約束というものをしないのだそうです。
将来について確かな事が分かる人はどこにもおらず、将来については何が起こるか分からないものであり、したがって確実に自分が約束を守れるとは限らないとの認識に立っての事だそうです。
この様な態度を取るイスラム教徒に対してキリスト教徒は「非建設的な態度だ」と非難します。
キリスト教徒は簡単に約束します。
典型的な例は借金でしょう。
アメリカ人がクレジット・カードを多用するのはその象徴です。
キリスト教徒とイスラム教徒とどちらが正しいのか?
約束を厳格な約束と捉えればイスラム教徒の方が正しい。
事実、無謀な借金をする人でなくても、地震などの不測の事態によって約束を果たせなくなる場合がある事は動かし難い事実である。
したがって、約束を厳格な約束と解釈するならば、たやすく約束を結ぶキリスト教徒は不誠実である。
なぜなら、不測の事態によって約束が守れない場合がある事に気付いていない人はどこにもいないであろうからだ。
約束が守れなくなるかもしれないと知っていながら、確実に約束を果たします、と相手に誓うのは、厳密には詐欺行為だ。
では、キリスト教徒の行なう約束を正当化する余地はあるのだろうか?
ある。
それは約束を厳格な約束と解釈しないことだ。
不測の事態があれば約束は果たせなくなる事を知っているのは、その約束に関与する二人の内の一方だけではなく両方なのであるから、約束の前提としては、一方の不誠実によってではなく不測の事態により約束が果たせなくなった場合については、互いに他を責めない、という暗黙の了解さえあれば、約束する事も誠実さに欠ける行為とは言えない。
不測の事態に対しては保険をかけておけ、という主張があるかも知れない。
それには一理あると思うが、保険機関が不測の事態によって機能しなくなる確率だってゼロじゃあない。
この様な事を良く理解したならば、約束においては前提がある、という事に注意が行くはずだ。
不測の事態によって約束が未遂に終わっても、相手を責めてはいけない、という前提だ。