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このページの内容は下書きです。

目標を単体で取り出しての評価は、それを達成しない方が良い程度と、それを達成した方が良い程度だけだ。
これに対して、2つの目標を絡ませる場合には、Aの達成を犠牲にしてBを達成する事をした方が良い程度とか、しない方が良い程度が、問題に成る。
それ以上の事については、(A1の達成を犠牲にしてB1を達成する事)の達成を犠牲にしてB2を達成する事、とか、A1の達成を犠牲にして(A2の達成を犠牲にしてB2を達成する事)を達成する事、とか、(A1の達成を犠牲にしてB1を達成する事)の達成を犠牲にして(A2の達成を犠牲にしてB2を達成する事)を達成する事、とか、[(A1の達成を犠牲にしてB1を達成する事)の達成を犠牲にしてB2を達成する事]の達成を犠牲にしてB3を達成する事、などの、入れ子状に任意に複雑化した目標の、した方が良い程度と、しない方が良い程度が、問題に成る。
この無限性が、責任遡及の無限性につながるのではないか、と予想する。

正当防衛の場合、攻撃しないという目標の達成を犠牲にして被害を受けないという目標を達成している。

しない方がよい事への妨害はした方がよい。

しない方が良い = しない事をした方がよい
した方が良い = しない事をしない方が良い
と考えられるので、した方が良い、か、しない方が良い、のどちらか一方だけの概念で済ませる事が出来る。

自由を基本とした正義感という物は、行為の禁止を置く事が主で、行為の強制を置く事は従である様な法制度に繋がるので、そ相対正義論においても、用語としては「しない方が良い」を主に使い、「した方が良い」は補助的にしか使わない事にしたい。

ここで言う、しない方が良い、というのは、日常語で言う所の、しない方が良い、よりもキツイと考えるべきだろう。
日常語の「しない方が良い」は、相対正義論の用語法では、するかしないか自由、に該当する。
相対正義論で言う「しない方が良い」は、既存の法では「禁止されている」に該当し、その硬直性の悪用を防ぐために設定された概念だ。
しかし、「しない方が良い」概念を用いる事で禁止よりも緩いモラルとかマナーと法律の統合を計る事が出来ないか、という問題意識も、私は持っているので、その辺は現時点ではまだ私にもよくは分らない。

私が前々から思っている事に、マナーというものも、実際問題としては強制されている、という社会の実態への、釈然としない気持ちがある。
この問題も同時に解決できれば、と思う。

しない方が良い程度の序列を具体的に究明しようとする事は、私の日記の記事で、大雑把に試みられている。
まだ間違ってる所があるだろう事に加えて、これを補正する考え方として、被害者の主観も犯罪の重さを左右する、という可能性についても、考える必要があろう。




最終更新2013年05月14日