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2024年11月08日(金曜日)
罪刑公定制度が支援する私刑制度の内容

とりあえずページ設置のみ。

私は以下の様に感じている。
公法と比較して、私刑制度が使う闇法には、以下の要素が含まれる。
公法 闇法
一切の私刑は犯罪である。 我々こそが社会であり、罪刑公定制度を運営している人々はコドモ社会、オコチャマ社会である。
コドモ社会、オコチャマ社会は小学校の学級会の様な物である。
他人をバカにするか否か、見下すか否かは、内面の自由に属する事であり、公権力が関与する事ではない。 他人をバカにする事、見下す事は死刑に値する罪である。
タメグチなど、ぞんざいな口の利き方をしたというだけでは、犯罪には満たない。 ぞんざいな口の利き方をする事は死刑に値する罪である。
出生、門地、性別、国籍、人種、社会的地位、・・・によって差別してはいけない。
また、どう思うかという意味での尊敬は、内面の自由に属する事であるから、一般に、尊敬される権利という物は誰にも無い。
社会的地位などに応じて、人それぞれには尊敬される権利に差が有る。
正当な理由が有る場合のみ、自分の命令に他人を従わせる事が出来る。 正当な理由が有る場合のみ、他人から言われた通りに行動しなくてもよい。
懲戒解雇・懲戒免職は罪刑法定主義に違反する私刑である。・・・私の解釈。
防衛解雇や避難免職なら構わないんだけど。
成文化されている。 成文化されていない。
自分達の好き嫌いで有罪か無罪かを決める。
自分が嫌だと思えば、それは犯罪だとされる。
自分より優れた人を見て、その人の優れている事を嫌だと思えば、それは害だとされる。
「嫌なやつ」という言葉が、重罪の罪名として使われているのは、その証拠である。
正しいかどうかは別として、量刑に気を使っている。 量刑がどんぶり勘定である。
死刑と無罪の2つしか無い。
司法試験という非常に難しい試験に合格した人々が中心に成って運営している。 数学の才能が劣っているという意味で頭が悪い人が運営しているので、ひどく不条理である。
一例を挙げると、利害が対立する2者の間に入って、2者のうちのどちらが正しいかどちらが間違っているかという判断に基づかず片方に味方し、他方の利益を減らしたり損害を増やしたりしておきながら、それを人助けだから善い事だ、人助けをして何が悪い、と主張する様な態度が見られる。
自分達の闇法が正義だとは、自分でも思っていない。
「どうせ、オレは醜いんじゃろうが」という発言に、そういう考えが表れている。
聞いた人が誤って受け入れそうなキャッチ・フレーズを「おう、それで行こうやあ」という風に使う方式で立法する。
その時の気分で、鬱憤晴らしやレクリエーションとして処罰を行なう。
公法ではもちろん禁止されていない様な事らしいと見えたが、闇法に違反しているという理由で処罰を開始しようとしているらしい2人組を、それらより一段物事の理解が進んでいる風に見える青年男性が、「そのぐらい良いじゃないか、何がいけないと言うんのか」という意味の言葉で制止しているのを目前で見た事がある。
闇法の運用の末端に位置する者達が暴走を始めたのだと思った。
誰でも鉄砲を持っていると撃ちたく成る、とは昔よく言われたものだが、程度の低い人に闇法の権限を持たせると、退屈しのぎに処罰するという様な事をするように成る物である。

こういった事に加えて、私は次の様に感じている。

闇法では、先天的才能や到達した能力や成し遂げた業績の程度を数字xで表す時、0 ≦ x ≦ 100なら尊敬される権利の程度とその数字xが一致するが、x > 100なら尊敬される権利の程度 = 100 - x = -(x - 100)であり、x < 0なら尊敬される権利の程度 = 100 - x = 100 + (-x) である、とされている。
つまり、x > 100なら x = 0の場合よりも社会的地位が低い、x < 0なら x = 100の場合よりも社会的地位が高い、と闇法では定められている。

参考:
02日@2024年11月@日記


最終編集2024年11月10日