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2024年11月03日(日曜日)
核兵器を禁止するとは、どういう事か

日本原水爆被害者団体協議会の皆様、ノーベル平和賞受賞、おめでとうございます。
被団協の正式名称に被爆者という言葉が入っていないなんて、今初めて知りました。

私の相対正義論では、被害の当・不当と加害の当・不当は局所的には一致しない、と言います。
その背景には、被害を無くすという目的を達成するためには全員で協力する必要が有るので、自分以外の全ての人がその協力を怠れば、その結果生じた問題を誰も自分ひとりで背負い切れるものではない、という考え方が有ります。

どうつながるのか分からない、何を言ってるのか分からない、というのが普通だと思う。
そういう人の為に説明します。
簡単に言うと、例えば韓国のイテウォンで起こった雑踏事故の様な状況で、人数の空間密度はギリギリ・セーフな状態を仮想して下さい。
その場合、誰も倒れさえしなければ、誰も死なずに済みます。
倒れない様に自分で自分の身体のバランスを保つ、これが被害を無くす為に各自がする協力です。
全員が自分で自分の身体のバランスをちゃんと保てていれば、事故は起きません。
しかし、誰かがバランスを崩して隣の人にもたれかかれば、その先どう成るか分からなく成ります。
1人がバランスを崩して隣の人にもたれかかっただけでも人身雪崩は起きるかもしれない。
それでは、多数の人が自分の身体のバランスを保つ努力を放棄したら、どう成るでしょうか。
必ず人身雪崩が起きて、バランスを保つ努力を怠らなかった人が圧死し、その死因である圧迫は必ず隣の人の身体によります。
しかし、隣の人もバランスを保つ努力を怠らなかったなら、責任は隣の人には有りませんね。
バランスを保つ努力を怠らなかった人が圧死する事は不当な被害です。
不当な被害は必ず不当な加害によって生じますが、その不当な加害をしたのは、隣の人ではなく、自分の身体のバランスを保つ努力を放棄した多数の人々です。
隣の人の圧迫したという加害は不当ではないのに、圧死したという被害は不当である、これが局所的な当・不当の不一致です。

原爆投下は隣の人の圧迫です。
圧死は被爆です。

私は、自分の身体のバランスを保つ努力を怠った多数の人々は米国民ではない、と言っているのではありません。
原爆を投下した張本人と自分の身体のバランスを保つ努力を怠った多数の人々が同一人物で、自分の身体のバランスを保つ努力を怠る事に喩えられるのが原爆を投下する事でなければ、原爆被爆は不当は被害であるから原爆投下は不当な加害である、とは言えないわけです。

それでも、原爆被爆は不当な被害の中でも不当性があまりにも甚だしいので、そういう被害は絶対に無くさなければいけない、という意見には私は賛成です。
しかし、そのために核兵器を禁止するのが正しい、という意見には私は反対です。

核兵器を禁止しても核兵器は無くならない、という事も有るでしょうけど、そういう反論の仕方に逃げず、もし仮に核兵器の禁止を全員に守らせる事が出来たとしたらどうかを考えて見ます。

核兵器を禁止しろ、というのは、人身雪崩で隣の人を押すな、と言うのと同じです。
どんな事があっても暴力はいけない、とか、どんな事があっても殺人はいけない、というのと言ってる事が同じなんですよ。
確かに、核兵器の禁止というルールを全員に守らせる事が出来れば、原水爆被爆という被害は全く生じなく成ります。
しかし、その代わりに、核兵器の保持や使用によって解決していた問題の害に核保有国が蝕まれる事に成ります。

それはそうだけど、その様な害は核兵器の害に比べれば大した事ないではないか、と言うでしょうか。
核兵器の被害を無くすには核兵器を禁止するしかない、と言っている被団協の皆さんは「大した事ない」という考えなんですよ。

そこで私は考えてみました。
核兵器を無力化する方法は、今まで誰も分からなかった事でしょう。
しかし、次の手が有ります。
全ての国の相似な要素を、核爆弾の投下では全ての国が同じ被害を受ける様に混在させる。
例えば、ずべての国の国会議事堂はイギリスのグリニッジに置く、どの国のどの食品店もその店から3km以内に全ての国の同規模の食品店が存在している様にする、・・・・という風にするわけです。
そうするためには、もちろん地理的な国境なんて全廃です。
こうすれば、どの国も、何時どこに核爆弾を落としても、敵国が受けるのと同じ被害を自国も受けてしまいます。
だから、核兵器なんて意味ない、という事に成るはずです。

どうです?被団協の皆さん、こっちの方がマシですか?
マシだとは思わないのではないでしょうか。
要するに、大した事あるんですよ。

したがって、被団協の皆さんの「核兵器を禁止しろ」という主張は考えが全然足りない、と私は思う。
被団協の存在価値は、核廃絶を推進する力である事ではなく、核兵器の被害の不当性を説得する力である事だ、と私は思っています。
その意味では、他者に代える事が出来ない存在価値が被団協には有ると思います。






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お前らなんかには、どうせ無理だ、と言われて、なんだとお、と奮起するぐらいでないとたどりつけないぐらい真理は遠いところにある。
私は、物の道理を説いているのであって、原爆を投下した米国を弁護しているのではない。
したがって、私の理屈を徹頭徹尾適用すれば、原爆投下の罪で米国を断罪する意見よりももっと厳しく米国を非難する意見に成る可能性だって有る。
原爆資料館の展示内容を劇的でない方向に変更した事は、被害の不当性を説得する力の減少である。
サンドボール

最終編集2024年11月04日