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2022年09月05日(月曜日)
安倍元首相暗殺事件の不審点2

安倍晋三暗殺事件における演説陣地と私のホバリング接続(3型)には、以下の類似点も有る。
安倍晋三暗殺事件では、被襲撃側の人員が、全員ではないにせよほとんど全員が演説を聴いている人々の方を向いており、後方への注意が欠けていた、この事が後方からの襲撃を許した、と言われている。
この事は、私のホバリング接続(3型)では胴の向きを出来るだけ単方向に保つ事に似ている。
ホバリング接続(3型)で胴の向きを出来るだけ単方向に維持する事は、ホバリング接続(3型)が移動しない単数の敵を想定した動構えだからです。
その考え方の元に成る考え方は、現在までのところ、
四つ足の構え(直進)UWV20220613@デザイン例@理論@武道に、直進の途中でホバリングに切り替える方法として、敵が左に居る場合には胴の向き=右の場合のホバリングは使わないこと、敵が右に居る場合には胴の向き=左の場合のホバリングは使わないこと、の理由として書かれています。(今後この記述は別のページに移動されるかもしれません)
犯人は、この部分を読んだのではないか。

安倍晋三暗殺事件では、襲撃を防げなかったのは後方への注意が欠けていたせいではなく通行者に気を取られたせいだ、という主張も耳にしますが、この事件が私の発表内容に反応した劇(芝居)だという仮説の観点から言うと、後方への注意が欠けていたという事も極めて有りそうな話なのです。
また、その通行者も犯人であった可能性が有ります。
集団ストーカーでは第3者を装った犯人が偶然を装って防犯を妨害するのがパターンです。
山上徹也が取り押さえられている写真で背後至近距離に写っている自転車の男はかなり怪しいよ。
弾着観測に来ている犯人の手先ではないかな。
  

安倍元首相と山上徹也が劇(芝居)である事を知らされていなかったならば、劇(芝居)ではなくドッキリだったと言うべきでしょう。
ドッキリカメラのやり方は、集団ストーカーの手口の中核的な考え方のひとつです。
今回の事件は、ドッキリカメラは一線を越えているのでやってはいけない事、を示す一例です。

状況設定が不自然人工的である事は、安倍元首相による応援演説場所が事件現場に急遽変更された、という事実からも分かります。

昨日の記事に掲載し忘れた図を、以下に掲載しておきます。
 
この図は、2022年05月04日頃から
バックハンド打ち@デザイン例@理論@武道に掲載されている図です。

安倍晋三暗殺事件には、次の様な不審点も有ります。
事件の前日か数日前に私は父ウダオサムに次の様な話をした。
暴力の定義としては、身体(からだ)に来るものは全て暴力だと考えねばならない。
だから、金を奪うのも暴力である。
なぜなら、金を奪われると今後働かなければいけない量が増えたり食べ物を買えなくなったりし、これは身体(からだ)に来るからだ。
首相の仕事の様な事を上手く出来る才能は小さい事を上手く出来る才能とは違う、と大金言に繰り返し書いてあった。
(大物政治家に小さい事でケチを付ける風潮への批判として述べた)
金を奪うのも暴力であるなら、銃撃するのと金を奪うのは暴力対暴力として釣り合うのであって、山上徹也の行為は、暴力以外の事に暴力で立ち向かったからいけない、という事には成らない。
また、山上徹也の場合、金を奪われた量が、それを屁理屈だと言えないレベルに達している。
金を奪われたせいで死者が出ているのだから、金を奪っても殺人である。
才能については、バベル社「大金言」第9版の2月7日分に「大才は愚なるが如し」というタイトルで書かれている。
小商業を営むとか、・・・近所、隣と交際うとか、・・・役人になって、上官のご用を勤めるとか、・・・とかいう日常の些事に智恵のよく回る人がある。
世間から、小利口な男、才子、利口者、世渡り上手などいわれている連中がそれである。
これを小才という。
・・・小才に対して、大才がある。
大才は、国政の料理、社会の改良などいう大事には、明らかであるが、小人の得意とする日常の些事に対しては、殆んど珍粉漢である。
無頓着である。
一向、智恵が回らない。
・・・
この本には、2月7日分以外にも、色々な月日の所に似たような事が繰り返し書かれていて、大才を尊び小才を蔑む著者の憎しみにも似た強い気持ちがよく伝わって来る。
最近、世相がその正反対に成っている事は残念だ。
小才が貴くて大才は有害であるみたいな、論調がはばをきかせている。
これがニーチェの言う奴隷道徳なのだろう。
奴隷道徳を正しいと主張する傾向、これもホントの心理学である。

つづく。