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2022年01月08日(土曜日) | ||||||||||
朝まで生テレビ2022年01月01日放送分を見た感想3 | ||||||||||
まず、昨日までに書いた事に、細々とした補足を書きます。 藻谷浩介による発言17発言19は、討論実技として優れている。 言ってみれば、これは枝落としだ。 藤井聡と藻谷浩介の対立には、藻谷浩介の発言に含まれていた「学部レベル」という言葉に藤井聡が猛反発した、という要素が含まれている。 藻谷浩介の発言に、藤井聡の経済学は学部学生レベルであって研究者レベルには達していない、という意味が含まれていないわけではないが、私が先述した様に、藻谷浩介の意見は「学部レベル」という言葉を使わなくても表現可能です。 つまり、藤井聡はモデルを使って因果関係で判断しているが経済学では因果関係で判断(論証)するのは無理であり相関関係での判断までしか出来ない、というのが藻谷浩介の意見です。 それに加えて、因果関係で判断するのは学部レベルです、と言い添えたら良かった。 藻谷浩介の発言に、藤井聡の経済学は学部学生レベルであって研究者レベルには達していない、という意味が含まれているのは、この意味でだけであり、これなら藤井聡もくやしくても言い返せないはずだ。 しかし実際には藻谷浩介はうっかり「学部レベルの」という言葉を先に言ってしまった。 そうしてしまったからといって発言内容が変わるわけではないのだが、そのせいで、藤井聡が「どこが学部レベルだと言うんだ」「学部レベルの何がいけないんだ」「言ってみろ」「正しい批判は甘んじて受けねばならない事ぐらいわきまえているが」「言えなかったら許さないぞ」という風に怒り出した。 そのせいで本来の争点に加えて「学部レベル」という言葉をめぐる対立が生じてしまった。 この不毛の対立を終わらせて本来の争点についてだけ話をしたい、この目的を達成するのが藻谷浩介による発言17発言19です。 発言17で不毛の対立(枝)を終わらせ(切り落とし)、直ぐに発言19で本論に復帰しているわけです。 発言18発言20は、この流れに田原総一朗が一時的に乗り遅れている事を意味します。 発言21の冒頭部分は、そのケアです。 発言11に見られる藤井聡の慌て様などから判断すると、論証(やその代わりに成る事を)しろと言われても出来るわけがない、今まで誰も出来なかった、という風に藤井聡は高をくくっていたのに、その出来るはずが無い事を藻谷浩介が平然と進めて行った、というのが真相ではないか。 胸のすく様な行ないというのは、藻谷浩介のそういう行ないの様な事を言うのです。 分かってあげた方が良いよね。 2021年12月@日記の派遣労働体験談に書かれている派遣労働での私の働きっぷりも、そうだったんだよ。 だから雇用者が私に犯罪をする様に成ったのだ。 昨日の記事で説明した不正Bや不正B1の防ぎ方は以下です。 (Bの防ぎ方1) 論敵の発言者を1人だけに限定してもらう。 発言役に仲間が耳うちするなどしてどう発言すべきか教えても良いが、発言役以外は発言できない、というルールを敷いてもらう。 (Bの防ぎ方2) 将棋の様に、相手が指すまで自分は次の手を指せない、自分が指すまで相手は次の手を指せない、というルールを敷いてもらう。 ひとつの発言は将棋の1手に相当するまとまりと規模でなければいけない。 発言者は1手につき1人だが、同一人物でなくてもよい、交代してもよい。 これらの防ぎ方を基準にすると、Bがどの様な不正であるかが浮き彫りに成る。 論敵が自分達の人数に等しい個数の将棋板を並べて、1人でそれら全部の相手をしろ、と要求する様な物だ、これがBです。 私の場合、2chで誹謗中傷を受けた時(24日@2019年12月@日記)、これをされ、私が全ての質問や批判には答える事が出来ないので主に重要な質問や反論から順に無理なく出来るだけ返答や反論を投稿していると、宇田は自分に都合が悪い質問や批判を故意に無視している、という誹謗中傷を受けました。 つまり、まず出来ない事を要求し、相手が出来ないからしないで居ると、しない事を悪事だとして相手を糾弾する、最初からそのつもりなのです。 そういう手口なわけです。 最近話題の「ネットでの誹謗中傷」という物も、こういう視点無しで「侮辱罪の罰則強化」などと言ってる様では、何も問題は解決しないのです。 警察官の職務質問もBだったなあ。(06, 07日@2013年12月@日記; 2015年10月@日記) 昨日の記事の不正Dについて。 「あなた、そんな事を他の人に言っちゃあ駄目だよ」というフレーズも、「無茶苦茶じゃないか」の代わりに使われる事が有ります。 昨日の記事に書いた様に「なんだそりゃ、そんな風に言うとまるで本当に無茶苦茶ででもあるかの様に聞こえるじゃないか」と言い返す代わりに、単に「人聞きが悪い事を言うな」と言い返すだけでもよい。 「人聞きが悪い事を言うな」と言い返す方法なら、不正E一般に対して有効だ。 Aを証明できなかったならnotAだ、という詭弁(きべん)に騙(だま)されない為の考え方は以下です。 「わからない」を幾ら積み重ねても「わかった」には成らない。 (何かを)証明できなかった事が(別の何かを)証明できた事に成るなんて事は無い。 出来る人は、ついでに以下の点も押さえておきましょう。 誰かが何かを証明できなかったとしても、その何かが証明不可能である事にすら成らない。 Aが証明不可能である事とnotAが真である事とは別である。 (Aは偽である) > (Aは証明不可能である) > (Aを証明できなかった) ここからが今日の本論です。 時間が無いので少しだけにします。 朝まで生テレビでの田原総一朗さんの十八番(おはこ)として次の様な意味の発言が有る。 「若い頃ソ連に行ったらソ連には言論の自由が無い事が分かった。言論の自由が無いのはいけない事だと思った。しかし帰国してそんな事を言うとクビに成るので言えなかった」 って事は日本にも言論の自由が無いって事じゃん、という点が笑えるんだけど、例えばこの発言の内容における「そんな事を言うとクビに成る」という部分について考えてみましょう。 クビにする人はどういう手続きでクビにするのでしょうか? 会社の規則に「そういう事を言うとクビにするぞ」と書かれているのでしょうか。 違いますよね。 しかし、違うからと言って、そんな事を言うとクビに成るというのは田原総一朗さんの取り越し苦労、被害妄想なのでしょうか? それも違いますよね。 やはり、そんな事を言うと間違いなくクビに成る状況だったのでしょう。 では、会社の規則にも法律にも書かれていない、それどころか公法規はむしろ言論の自由を保障しています。 公法規に逆行すらする自分達の賊法を執行する誰も逆らえない大きな力とは、どんな力なのでしょうか? その答えが、ここまでで説明した下賎の手口なのです。 自分の意見は正しいから必ず認めさせる、私は天才に生まれたから相応の人生にする、こういった態度に対して、そうは行かないんだよ、と言う人が居るのは何故でしょうか。 公法規の通りならば、正しい意見は認められ、天才は相応の人生を実現させるのではないでしょうか。 そう成るとは限らない、というなら分かりますが、実際には、そうは成らないものだ、と言われる。 そうはさせてたまるか、という意志が存在しているのは分かるが、この意志はどうやって世の中に反映されるのだろうか。 「出る杭は打たれる」と言うが、出る杭を打ってる姿を見た事は無い。 どうやって打っているのだろうか。 その答えが下賎の手口なのである。 朝まで生テレビ2022年01月01日放送分を見た感想を私が今書いているのは、1を聞いて10を知ってもらうためであり、朝まで生テレビ2022年01月01日放送分に限った話をするだけなら、書くのに費やしている時間や労力に見合わない。 つづく。 |
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