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2021年12月05日(日曜日)
悪事のパラドックス(相対正義論の話)

悪い事が好きだという人が居ても、好き嫌いの如何にかかわらず悪い事をしてはいけないというルールなのだから、ルールが守られる限り、実被害は受忍限度内に収まる。
悪い事が好きだという気持ちに一方的に干渉する事は許されないが、その気持ちを動機として何かがどうか成る様に狙って選択する事は、ルールの制限を受ける。
だから何も問題ない。
これが一応の答えだ。

しかし、ここで少し数学的ないし論理学的な興味を追求するなら、次の疑問が生じる。
もし、全ての人が悪い事を好きなら、ルールは悪い事を全く制限しないのではないか?
ウソツキのパラドックスみたいなこの問題を今日は考えてみる。
悪い事とは何かは好き嫌いで定義されるのだった。
悪い事とは協力度が義務以下である事で、それは、自分の目標の各々について、それより優先度が高い他人の目標の邪魔に自分の目標が成る時には、自分の目標より他人の目標を優先的に尊重する、という事だった。
そして、優先度は好き嫌いと達成され易さで決まるのだった。
この前提で、目標が悪い事だったら、どうなるのだろうか。

ハッキリと答えが出たわけではないけれど、次の様な事を考えました。
悪度と優先度が一致している場合、ルールは、悪度が高い他者の目標よりも悪度が低い自分の目標を優先させてはいけない、という事を言っています。
そのルールに違反するのが悪い事なのだから、悪度が高い他者の目標よりも悪度が低い自分の目標を優先させるのが悪い事です。
これは、他者の選択の悪度と自分の選択の悪度の合計が小さくなる様な選択を悪いと評価する事なので、ウソツキのパラドックスにおける「ウソツキはウソツキではない」という迷妄に相当する迷妄だと考えられます。

29日@2021年11月@日記に書かれている教えて下さいMLでの一件で、引っ掛かった事が有ります。
私の質問に応答してくれた人が私(宇田)の事を、知的エリートなのに・・・、という風に批判しました。
それ以外の機会にも、お前の事だとは言われずにエリート(選ばれし者)がどうのという話を聞かされて不審・不快に思う事が、その頃から多く成っている。
何の事を言ってるのだろうか。
その頃も今も私は、統合失調症の患者だとされ、エリートだと言われる職業には従事していないんだけど。
出身高校や出身大学の事を言ってるのだろうか。
それは今の私がどうかではないですよね。
日本物理学会の会員である事をエリートだと言ってるのだろうか。
そうかもしれないけど、鈴木貞吉さんだって日本物理学会の会員ですよ。
だから、日本物理学会の会員はエリートって、ちょっと違うと思うんだよな。
それから、私(宇田)の最大の属性は「天才」であって「エリート」ではない、という事が私にとって大切なのでエリートと言われると、自分を矮小化されたと感じて、不本意なんだよ、ずっと前から。
エリートは選ばれた人で、その仕事は選んだ人から任された仕事です。
それに対して、天才は生まれつきのものであって選ばれて就任する地位ではないし、その仕事は付託を受けてするものではなく自分で勝手にする仕事です。
その前提で私は、好きだろうが嫌いだろうが関係なく、誰が見てもこれはこうだよな、という結果を出して世の中に貢献する様にしています。
他人を馬鹿呼ばわりしないだけの役立たずの偽善者達よりも、他人を見下して我一人のみ高しとしている私の方がよっぽど善人である事は、私の相対正義論や宇田経済学についての考えを読めば、もう分かったでしょう。