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2021年11月27日(土曜日)
自分の受動的側面(相対正義論の話)

第0種の私有財の第1の特徴と第2の特徴から、次の事が言える。
自分でもないし自分の第0種の私有財でもない人や物や事に自分の選択が及ぼす影響は全て、自分の第0種の私有財がそれらに及ぼす影響だけである。
これが、狙っての選択を取り締まる事と行為の外形を取り締まる事は等価である、という理屈の基礎語による表現です。
この様に基礎語で書いてみると、狙っての選択と行為の外形は厳密には一致しない事にも気付く。
それは、ひとつには、第0種の私有財も狙い通りには動かない、という点であり、もうひとつは、狙っての選択が違っても第0種の私有財の挙動は同じに成り得る事である。
これらの不一致は実際には小さいので、これが当たったのだと主張しても「言い訳するな」と言われて信じてもらえない傾向が強いだろうけれど、行為の外形と選択が完全には一致しない事は確かである。

狙って選択する義務を各人が果たすには、選択の結果を狙い通りに成らせる手段(選択の結果が狙い通りに成る仕組)は必要ない。
その様な手段(仕組)が無ければ狙って選択する義務を誰も果たさなく成る、という事は無いだろう。
しかし、その様な手段(仕組)が無ければ、全ての人が狙って選択する義務を果たせば実被害が受忍限度以下に収まる事が確率的に保証されるという法則が成り立たなく成る。
この法則が成り立つ為には、狙って選択した結果の確率分布が狙いとの距離の減少関数で、その減少の急さがある程度以上でなければいけない。
これは、選択の結果を狙い通りに成らせる手段(仕組)が必要である事に他ならない。
第0種の私有財は、その様な手段(仕組)のうちの最低限必要な基本セットである事は間違いないだろう。
これを、第0種の私有財の第4の特徴と呼ぶ事にする。

さて、ここまでは昨日の話しの続きでした。
ここまでは、私の相対正義論の弾力的義務の理論で考えられる協力する義務の観点から、第0種の私有財を評価してみました。
弾力的義務の理論には、協力する義務だけでなく受忍義務というものが有り、協力する義務と受忍義務がセットで全義務を構成するのでした。
受忍しないとは協力する義務に違反する事だから、全義務は「実被害≦受忍義務ならば協力する義務を果たせ」だと言えます。
ところで、実被害と受忍義務の大小関係は何を基準にして測るのでしょうか。
分かり易く言うと、単位は何でしょうか。
単位というのは、cmとかkgとか秒の事です。
例えば、自分の身体を誰かにナイフで切り付けられたら、それは被害だと思うんですけど、それは自分の何かを狙っての選択の結果が狙い通りに成る邪魔だから被害なのでしょうか。
それも有ると思いますが、痛みも被害ですよね。
第0種の私有財は自分から分離できないので、第0種の私有財をナイフで切り付けられると、ダイレクトに自分が痛いと感じます。
第0種の私有財に損害が発生しました、という電話が掛かって来るのではなく、自分が痛いと感じるわけです。
これを第0種の私有財の第5の特徴と呼ぶ事にします。
ここに来て、正議論的な意味での自分には、狙って選択する自分だけでなく、好き嫌いを感じる自分も有る事に気付きます。
好き嫌いを感じる、というのは、価値を評価するとか、快不快を感じるとか、損得を勘定するとか、色々な言い換えが考えられますが、私は「好き嫌い」という言葉を選びました。
「好き嫌い」が最も基礎的だろうと直感するからです。
論を進めて行きながら、この直感が当たっているか否かを検証したいと思います。
痛いのが好きなら痛い事は損害でない。
これは、死ぬのが狙いなら殺人は邪魔ではない、という理屈の相似形です。
痛いのが好きで痛くないのが嫌いな人にとっては、常時痛みを与えるサービスを提供し続けないと加害した事に成るのか、そんな馬鹿な話は無い、という問題も考えなければいけませんが、とりあえずここでは、各人ごとに違う好き嫌いで損害は測られる、としておきます。
その際に、好き嫌いの判断材料は全て第0種の私有財が自分にもたらす、という意味で、第0種の私有財は最低限必要な感覚手段の基本セットだ、と言えます。
これを、第0種の私有財の第6の特徴と呼ぶ事にします。