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2021年11月26日(金曜日) | ||||||||||
自分の手足は自分ではないと仮定すると何が分かるか(相対正義論の話) | ||||||||||
狙って選択した事(その結果ではない)の責任は狙って選択した人が問われるのであって他の人が問われるのではない事から自他の区別は必要だと分かる、と昨日書いた。 今日は、自分の範囲はどこまでか、という非常に基礎的で重要な問題を考えてみる。 結論としては、自分とは自分の身体およびそこに記録されている情報(著作権は別)の全部である、といったあたりが順当だと予想される。 その根拠は、次の2つだろう。 (1) 狙って選択するだけなら手や足は関係ない、脳だけで十分だとしても、そんな事を言うんだったら、脳だって全部は必要ない、脳の中の狙って選択する機能を司る部分だけが正義論的な自分である、という事に成るが、その様に脳を分割するのは無理だろう。 なら、脳全体が自分だとするのも身体全体が自分だとするのも五十歩百歩だ。 また、脳と手足の神経がつながっている以上、狙って選択する事において手や足は関係ないという判断は厳密には間違っているかもしれない。 だから、念のために、自分の身体全体を自分だと定めておくべきだ。 (2) 衣食足りて礼節を知る、という諺が示す様に、衣食どころか手や足まで自分の好きに出来ない状態でルールを守れと要求するのは正義に反する。 この様な原理的な問題を研究するために、狙って選択する部分とそれ以外の部分に自分の身体を分けて、狙って選択する部分だけが自分であり、それ以外の部分は自分の私有財産だ、と仮定してみる。 この事から、私有財産についてどの様な権利が必然的であるかやその理由が、導き出されるのではないだろうか。 さて、自分の身体やそこに記録されている情報のある部分は自分ではない、とする。 ここでは、とりあえず、それを第0種の私有財とでも名付けておく。 第0種の私有財は、正義論的にはどういう特徴を持つだろうか。 第0種の私有財ではない何かがどうか成る様に狙って選択した場合、物理的には、選択という事象が原因と成って近接作用の物理法則に従がって結果が伝播・波及して行く事に成る。 ホイヘンスの原理を思い浮かべて欲しい。 結果が原因と成り次の結果が生じる事の繰り返しだ。 その際に、テレパシーでも無い限り、第0種の私有財は必ず経由される媒質である、という事が、まず言える。 これが第1の特徴である。 また、第0種の私有財は媒質の中でも選択という事象に最も近接している。 これが第2の特徴である。 第1の特徴は、第0種の私有財は選択を包んでる、という事で有り、第2の特徴は、第0種の私有財は選択に隣接している、という事だ。 これらの特徴が有る故に、狙って選択する事は、第0種の私有財ではない物がどうか成る様に狙って選択するのであっても、どれも究極的には第0種の私有財がどうか成る様に狙って選択する事でしか有り得ない。 第2の特徴のおかげで、第0種の私有財がどうか成る様に狙って選択した結果は、第0種の私有財ではない物がどうか成る様に狙って選択した結果よりも、狙い通りに成り易い。 そのため日常では、第0種の私有財がどうか成る事は、選択そのものであると認識されており、第0種の私有財をどうする、という他動詞表現が自動詞表現だと認識されている場合が有るほどだ。 弓や銃で的を狙う場合には、第0種の私有財は「狙う」という行為そのものに関与している。 これを一応、第3の特徴だとしておく。 ただし、第0種の私有財ではない弓や銃だって「狙う」という行為そのものに関与しているし、レーダーを使って狙う時にはレーダーもそうだから、第3の特徴を第0種の私有財の特徴だとするのは間違いだろう。 結論が出ませんが、今日はこの辺で。 |
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