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2021年11月24日(水曜日) | ||||||||||
妨害の定義を補正します(相対正義論の話) | ||||||||||
鍵に成る気付きは以下の点です。 今日中にCさんが死ぬ様に狙ってAさんが選択し、今日中にCさんが死なない様に狙ってBさんが選択するとします。 Aさんの選択の結果がAさんの狙い通りに成らないとは、今日中にCさんが死なない事です。 もし妨害を、他者の選択の結果が狙い通りに成らない様に狙って選択する事だ、と定義したならば、Bさんの選択はAさんの選択への妨害だという事に成ってしまいます。 しかし、実際には、Aさんが何を狙ったかやAさんが選択した事をBさんが知らない場合には、Bさんの選択を妨害とは言わないのが正しい。 そういう場合には、(Bさんの選択の結果)が(Aさんの選択の結果がAさんの狙い通りに成る邪魔)に成る、という方が正しい。 また、今日中にCさんが死ぬ様に狙って選択している人は、Aさん以外にも、どこに誰が居るか分からない。 それらの人をBさんは知らないのに、その様な人が居るか居ないかによって、Bさんの選択が妨害であるか否か変わるのは、妨害という言葉の意味に合わない。 またAさんも、Bさんの選択の結果がBさんの狙い通りに成らない様に狙って選択しているので、他者の選択の結果が狙い通りに成らない様に狙って選択する事は妨害だと言うなら、Aさんの選択も妨害である事に成ってしまい、これも妨害という言葉の意味に合わない。 以上の気付きを動機として、妨害の定義を以下の様に変更します。 妨害とは、(自分の選択の結果)が(他者の選択の結果が狙い通りに成る邪魔)に成る様に狙って選択する事である。 言い換えると、今日中にCさんが死ぬ様に狙ってAさんが選択しなかったならば、今日中にCさんが死なない様に狙って選択する事をBさんはしなかった所だが、実際には今日中にCさんが死ぬ様に狙ってAさんが選択したので、それに反応して、今日中にCさんが死なない様に狙ってBさんは選択した、こういう場合が妨害です。 これに対して、Aさんが何を狙って選択したかしなかったかにかかわらず、Bさんはもともと今日中にCさんが死なない様に狙って選択する予定だった、予定通り選択した、という場合には、Aさんの選択の結果とBさんの選択の結果が相互に邪魔に成った、と言われるべきであり、妨害という言葉の出る幕ではない。 また別の言い方をすると、今日中にCさんが死ぬ様に狙ってAさんが選択したからという理由で、今日中にCさんが死なない様に狙ってBさんが選択した、この場合にはBさんの選択は妨害です。 それでは、何を狙って選択したかしなかったかだけでなく、どうしてそうしたのかまで、する義務やしない義務の有無を判定する条件に含まれるのでしょうか。 はい、そうです。 どうしてそうしたか、という言い方では、内面の自由への不当な干渉なのではないかと疑われそうなので、少し言い方を変えましょう。 その選択はどういう条件が成立し(なかっ)た時に発動される事に成っているか、も問う。 これは、もっともらしいルールです。 なぜなら、それによって実被害の統計が変わって来るからです。 何がどう成る様に狙って選択したかしなかったか以外も問われると考える事が一応できますが、「邪魔に成る様に狙って」という言葉を使えば、何がどう成る様に狙って選択したかしなかったかしか問われない、という形に収める事も出来るのではないか。 狙いが偶然対立しているのと邪魔に成る様に狙ったからそうであるのとでは決定的に違うんだ、という事情は、行為の外形ではなく狙いが肝心なんだという事情の相似形ではないだろうか。 色々な人の選択の狙いが両立しないだけなら、それらの選択は相互に邪魔に成っているだけであって、妨害ではない。 邪魔に成る、という言葉の普通の意味では、選択の邪魔に成るわけではなく、選択の結果が狙い通りに成る邪魔に成る、と言うべきです。 邪魔に成る、という言葉に普通とは違う相対正義論独特の用法を与えるべきかもしれません。 これで、第N種の妨害という概念を復活させる事が出来そうです。 妨害という概念よりも「邪魔に成る」という概念の方が基礎的だ、妨害は「邪魔に成る」を使って定義される、という事がこのページで発見されました。 「邪魔に成る」に厳密な定義を与える事は後で考えたい、と思います。 |
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