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2021年11月23日(火曜日)
防御(相対正義論の話)

ここまでは、第N+1種の妨害は第N種の妨害の結果が狙い通りに成らない様に狙って選択する事だ、として来た。
しかし、それだと、第偶数種の妨害は全て第0種の妨害であり、第奇数種の妨害は全て第1種の妨害だ、という事に成ってしまう。
なぜなら、第2種の妨害は第1種の妨害の狙い通りに成らない様に狙うのであり、第1種の妨害は第0種の妨害の狙い通りに成らない様に狙うのだから、第2種の妨害は第0種の妨害の狙い通りに成る様に狙う事に成る等々だからだ。

だから、ここで、定義を少し変更する事にした。
第N+1種の妨害は、第N種の妨害がその目的を達成する役に立たない様に狙って選択する事であ。
あるいは、N≧2の「第N種の妨害」という概念を全廃する方がよいかもしれない。

さて、自他の区別を考えに入れるならば、Aさんがどうか成る様にBさんが狙って選択し、Aさんがそれを妨害する事は許されねばならないが、第1種の妨害を一律すべて禁止したのでは、そう成らない。
Aさんがどうか成る様にBさんが狙って選択する事は、何かを狙ってのAさんの選択の妨害に必ず成っているから、第1種の妨害を一律すべて禁止で良いんだよ、とあなたは言うかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか。
違う、と私は思う。
妨害という概念の範囲は狭い。
Aさんがどうか成る様に狙ってBさんが選択しても、そう成らない様に予めAさんが狙っていなければ、Bさんの選択は妨害には成らない。
だから、第1種の妨害を一律すべて禁止したのでは、他人が自分をどうかしようとする行為を妨害する正当な行為が出来なく成ってしまう。

この問題を解決する為に私は、概念構成を少し組み替えてみたい。
ここで、「防御」という概念を導入する。
防御とは、自分の選択の結果が狙い通りに成る邪魔に他人の選択の結果が成らない様に狙って選択する事である。
つまり、他人の行為が自分の行為の邪魔に成らない様に狙って選択するのが、防御です。
これまでは、殺人は多くの場合妨害だからいけない、と考えて来たが、これは本質ではない気がする。
実際には、大抵の人は死なない様に狙って選択しているので、その選択に対して殺人は妨害だが、それだけではなく、殺人は被害者の「死なない様に」以外の色々な狙いの邪魔に成る。
殺人は、妨害だからいけないという理屈を持ち出さなくても、邪魔に成るからいけないという理由だけでも禁止されべき事が分かる。
防御という概念を使うならば、他人が自分をどうかしようとする行為の被害は妨害によらなくても防御によって減じたり消したり出来る。
防御ならば、対象と成る他者の行為と狙いの点で対立せず、互いに「邪魔に成る」の関係なので、自分の事は他人の事より優先されねばならない、という理屈によって禁止を免れる。
そして、第1種の妨害を一律すべて禁止というルールは生き残らせて、他者が自分をどうにかしようとする事に対しては、妨害ではなく防御という概念を使ってはどうか。
でも、狙いが対立した場合には、防御だから妨害ではない、とは言えないよな。
じゃあ、第1種の妨害は禁止というルールに自他区別由来の例外を設ける必要が有るのかもしれない。
後で考えます。

いま思ったんだけど、第0種の妨害と第1種の妨害って、狙いが何かだけで定義したのでは、どっちが第0種の妨害でどっちが第1種の妨害か決まらないよね。
後で考えます。

昨日の図解を少し修正します。
 
協力するとは、何かを狙っての他人の選択の結果が狙い通りに成る様に狙って選択する事です。
妨害するとは、何かを狙っての他人の選択の結果が狙い通りに成らない様に狙って選択する事です。
協力する事の協力度は正(プラス)だ、と定めます。
妨害する事の協力度は負(マイナス)だ、と定めます。
妨害は負(マイナス)の協力である。
協力も妨害もしない場合の協力度をゼロと定めます。
協力度が正(プラス)でも小さ過ぎれば、邪魔に成り過ぎない様にしなさい、という規則に違反します。
グラフ中の「邪魔に成る」の範囲は、全体の富が小さいほど大きく成ります。
妨害してはいけない、邪魔に成り過ぎてもいけない、という規則は、協力度の下限はコレコレである、という形にまとめる事が出来る。
協力(協力度が正)の協力度の大きさは、他の狙い候補をどれだけ後回しにしたかで測られます。
コレコレとはどれだけか、という問題は、誰がどれだけ譲らなければいけないか、という問題と同じである。
私の相対正義論の弾力的義務の理論は、協力度の下限はコレコレである(しっかり狙ってさえいればよいのであって結果の責任は問わない)、というのが正しい義務の置き方であり、この義務が守られれば酷すぎる結果は生じない事が確率的に保証される事、したがって、酷すぎる結果が生じてしまった場合、必ずどこかに協力度の下限に違反した人が居るはずでありその人が真犯人である事、協力度が負(マイナス)の真犯人を放っておいて行為の外形で人を逮捕するのは誤認逮捕である事、誤認逮捕では酷すぎる結果を無くす事はできない事、また誤認逮捕も酷すぎる結果である事、これらを主張する物です。