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2021年11月22日(月曜日)
自他の区別3(相対正義論の話)

エウレカ!わかったぞー!

評価の順位(相対評価)で1位に成るというのは、一見すると自分がどう成るかを表している様に見えるが、実は、相手がどう成るかを含んでいる。

絶対評価での将棋の実力が、Aさんはx, Bさんはyだとする。
すると、相対評価でAさんが1位に成るには、x > y である事が必要だ。
つまり、相対評価でAさんが1位に成るという条件は、Aさんがどう成るかだけでなく、Bさんがどう成るかを制限している。
従がって、相対評価で1位に成る事をAさんは重要だと考えBさんは重要でないと考えていても、相対評価でAさんが1位に成る様にAさんが狙った結果がAさんの狙い通りに成る邪魔に成るからという理由では、Bさんにyが増え過ぎない様に狙う義務は生じない。

ここで少しまとめておく。
自由の尊重が正義の原理である。
自由の尊重とは協力度に下限を設ける事である。
邪魔に成らない事と協力する事を区別出来ないので、協力度がゼロであるとはどういう意味かを曖昧さ無く定義する事は出来ない。
協力度の下限は邪魔に成るゾーン内に在る。
妨害は負(マイナス)の協力だと考えられる。
妨害の協力度は協力度の下限より下だから、どの様な妨害も「しない事」が義務である。
他者が何かを狙って選択した結果が狙い通りに成らない様に狙って選択する事を妨害と呼ぶ。
 
今回この図式に自他の区別を加味しなければいけない事が分かった。
さらに、第偶数種の妨害は禁止されないが第奇数種の妨害は禁止される、というルールを焼き直して、この図式に取り込む必要が有る。

ついでの話ですが、このページ等に私が書いた事は最新の結果であって、昔の私にここまで分かっていたわけではありません。
昔の私は、もっと見当外れな方向で考えていたり、出発点から近くまでしか進めていなかった、と思います。
しかし、相対正義論という大テーマで今私が展開している思索の動機ないし着想は、大学生だった頃には既に私の頭に有りました。
極論を言うと、釈迦が天上天下唯我独尊と言いながら生まれて来たのに対して、「何が正しいか本当の事はオレにしか分からない、教えてやるから待ちなさい」と言いながら生まれて来たかの様な人物が私です。
その様な自意識が私には昔から有ります。
さて、以上の事を予備知識として聞いて欲しいのですが、大学生だった頃に私が、相対正義論の傾向を持った考えを「これは、こうで、これは、こうだから、こう」という風に言うと、それを聞いた親しい友人のひとりが私に向かって「宇田君、それ違うよ」と言った事が有った。
それを私が今でも覚えているのは、いぶかしく思ったからだ。
理由を聞いてみないと分からない、と思ったので、自分が言った事が本当に間違っているのかもしれない、とその時の私は思った。
現在ですら相対正義論は完成していないのだから、大学生だった頃の私が述べた考えには至らない所が多く有った事だろう。
しかし、それが何故その友人に分かったのか、それも即座に。
そこが不審なのである。
そこで、ひょっとして、と当時から思っている事が有る。
それは、集団ストーカーというのは、被害者の目が見えているかどうか探りを入れて来て、目が見えていない事を確認した上で犯行に及ぶ、という習性がある事だ。
私が自説を「違う」と言われて強く言い返さなければ目が良く見えてないという事だ、それなら私の自説によって間違っているとされる行ないを仕掛けても、それを私は絶対に間違っているとハッキリとは認識できないだろう、この目論見の手先として親しい友人が私の視力を確めに来たのではないか。
この友人のこの発言の意味を推測する上で参考に成る事が有った。
そのひとつは、大学生時代に私がある友人から何か相談されて答えると「へ?そんな簡単な事で良いの?」と言われた事だ。
これは、その友人が私の答えよりももっと難しい条件が自分に課されていると思っていた証拠だ。
その難しい条件を課すのが集団ストーカー系の人々であり、私の主張は、その集団ストーカー系の人々の主張と内容が対立していたのではないか。
「宇田君、それ違うよ」と宇田に言え、と集団ストーカー系の人から要請されたのではないか。
「宇田君、それ違うよ」と言った友人と「へ?そんなので良いの」と言った友人は同一人物だったかもしれない。
そうだったならば、普段は私の意見と集団ストーカー系の人々の意見が突き合わされる機会が生じないが、「へ?そんなので良いの」の件で私の意見が集団ストーカー系の人の耳に入り、それに怒った集団ストーカー系の人が「宇田君、それ違うよ」と宇田に言えと要請した可能性が有る。
また、こんな事も有った。
大学生時代晩期に、2人か3人程度の顔見知りの友人が私の前にやって来て何かを私に話したが、その際に前置きとして「宇田君、頼むから何も言い返さずに聞いてくれ」と言った。
これは、私に話を聞かせ私が何も言わなかったらその話が承認された事に成るか何かの前提条件が背後に存在していたからではないか。
これは、「宇田君、それ違うよ」と私に向かって言う動機を与える。
その友人は、というのではないが、私が反論したい様な事を私に向かって言い、私が言い返すのを聞かない様に素早く立ち去る、という行為もパターンとして存在する。
それも、不審な事に、私の反論が聞こえてしまう事をひどく恐れながら慌てて飛び退く様に立ち去るのである。
これは状況証拠として重要だ。
また、こんな事も有った。
ある友人に私が何か言うと、その友人は「そんなこと言ったら殺されちゃうよ」と言った。
私はその友人に話しただけで、誰か他の人に伝言してくれとは言っていないのに、どうして伝言が前提に成っているのだろうか。
非常に不審である。
これも、互いに面識の無い人の意見が共通の知人を介して交換される習慣が有る事の証拠だと見なされる。
これが分断の両側に居る人の関係を調整する秘密の仕組として行なわれ続けた事なのかもしれない。
今日はこの話題について書く予定ではなかったので、推敲せずに雑なままにしておきます。
また、続きを書き始めたらきりが無いので、ここでやめにします。