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2021年11月09日(火曜日)
悪とは何か、悪人とは誰か

数日前に私は父であるウダオサムに相対正義論のエッセンスとして以下の内容を話した。

自由の尊重が正義の原理である。
妨害とは他人の何かを狙っての行為の結果が狙い通りに成らない様に狙って行為する事である。
妨害ではない行為を第0種の妨害と呼び、第0種の妨害行為を妨害する行為を第1種の妨害と呼び、第1種の妨害行為を妨害する行為を第2種の妨害と呼び、第N種の妨害行為を妨害する行為を第N+1種の妨害と呼ぶ事にする。
すると、自由の尊重とは第奇数種の妨害の禁止である。
その保障は、第偶数種の妨害によって与えられる。
例えば殺人は、例えば80才に成るより早く死なない様に狙って日々すべての選択を行なっている人の選択の結果がその人の狙い通りに成らない様に狙って何かするわけだから、妨害の一例である。
「~害罪」で言うところの「~害」は、多くの人が望まない事の最大公約数だから、特にこの人は望んでるんだという人と事については害ではなく、「~害罪」は妥当しない。
煎じ詰めれば殺害罪である殺人罪も、そうである。
しかし、本当は望んでいない事を望んでいないとは言い難い場合も有るので、殺害は一律誰も本当は望んでいないと見なして判断する事は、実務のやり方としては、かなり正確に正しいだろう。

ウダオサムに話した内容は以上。
全部を書き出す事は出来ていないと思う。

これの主要部分を既に私は宇田英才教室サイト内に書いたと記憶しているので、ウダオサムにもそう言ったし、今も自分で探してみたが、何故か見付からない。
間違いなくどこかに書いたと記憶しているので、もしどこにもないならば、何者かによって削除された可能性を考えなければいけない。
明日も探してみようと思う。

自由と平等を原理とするフランスの人権宣言の跡継ぎであるに違いない上記の私の思想は、そうであるが故に狙われる事を心配しなければいけない。
ひとつには、それは、この原理を通用させまいとする勢力から狙われる、という事であり、もうひとつは、私以外の人が考え出した事にしようとする勢力から狙われる、という事である。

さて今日の本論。
悪とは、第奇数種の妨害および、そうしようとする意図の事である。
悪人とは、そういう意図を死ぬまで捨ててたまるかと頑固に思っている人の事である。
従がって、法律に全く違反しなくても悪人は悪人であり、悪は悪である。
その様な悪人は、法律が「一切の悪を禁止する」という事を詳しく具体的に書いただけの物に成るのは絶対に嫌だと考え、そうでない法律を、その条件下で自分達の悪の目的を達成せよ、という技術開発の問題だと考える。
これは、狙いを取り締まる法律には耐えられない、法律は行為の外形を取り締まる形で出してくれ、今度はどの問題を解けばいいんですか、という態度だ。
それでは、いけないのである。
問題が解ければ悪い事をしてもよい、そうでなければ絶対に嫌だ、その考え方が根本的に間違っているのである。

自由が基本である事は、身体障害者を指す「~の不自由な人」という言葉に良く表れている。
つまり、誰の目で見ても、自由が減る事が害なのである。
それを悪人が知らないわけがない。
言語的に認識していなくても、悪人も善悪を見る目はよく見えているのである。
また、例えば「人生は思い通りに成らない」という台詞がコマーシャルなどでテレビから聞こえた事が何度も有ったり、何かのテレビ番組で「狙った事が全て自分の思い通りに成った人が居てはいけない、そんな人が居たらそれは独裁者だから、そうですよね?」という発問を聞いた事も有ります。
これらに結果が誰かの狙い通りに成る事を憎む気持ちがにじみ出ている、と私は見ています。
それも、マスメディアから正統の意見として聞こえて来るのだから、悪の勢力範囲は相当広い、と思われます。
何かが誰かの思い通りに成った事は、思い通りに成ったからいけないのではなく、その為に別の何かが他の人の思い通りに成らないからいけないのです。
つまり、思い通りに成る事自体は良い事だし、他の人の自由を犠牲にしなければ批判の対象にしてはいけないのです。
狙った事が全て自分の思い通りに成ったら独裁者なのではなく、狙った事が全て自分の思い通りに成る事を目的とする仕組みが存在していれば独裁者なのです。

第奇数種の妨害だけが自分から進んで行なう事である、悪人のこの特徴は、悪人がどんな人なのかを知る手掛かりに成る。
自分がどうであるかだけでなく、他人がどうであるかが自分の思い通りでなければ耐えられない。
他人との相対的な関係を、自分を変える事によってではなく、他人を変える事によって、自分の思い通りにしようとする。
こういった特徴が挙げられるだろう。
どちらも、大人に成る為には子供のうちに無くしておかなければいけない性質だ。
この様な悪人が、大人とか社会とか常識という言葉を使って善人を侮辱したり批判したりするのは、実に逆さまなのである。
自分が努力するのではなく他人の努力を妨害する、というのは、どんな人だろうか。
多分、一方的に対抗意識を持っている相手に先天的な資質でてんで及ばない、最初から勝ち目が無い、そういう人だろう。

こういった悪人を識別するフレーズが有る。
それは「強い者が勝つのではいけない」というフレーズだ。
これは、第奇数種の妨害は全て禁止ですという法律では強い者が勝つからいけない、という風に使われます。
私がここにそう書いたので、悪人は識別されるのを防ぐ為にもうこのフレーズを言わなく成るかもしれませんが、過去にこのフレーズを気に入って自分から進んで言っていた人は悪人です。
強い者つまり先天的な資質が優れている者が勝つのではなく、先天的な資質が優れている人と劣っている人が互角に成る様なハンディキャップを設定しなさい、というのが悪人の要求です。
そのハンディキャップが妨害つまり犯罪の許可であるわけです。
とんでもない話です。
「弱きを助け強きを挫く」という決まり文句も怪しい。