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2021年06月01日(火曜日)
YouTubeでひとゆきvs三橋討論を視聴した感想

Youtubeで
 
【ひろゆき×三橋貴明】徹底討論!1人産めば1,000万円支給せよ?
という動画を視聴して、その感想をコメント欄に投稿したのですが、多数の後着コメントで私のコメントの表示位置が繰り下がって見付けられなくなってるので、以下に再掲しておきます。
投稿したのは05月です。

争点が最大の争点に絞られず、粗探し的な指摘とそれへの反論ばかりだった。
その責任は主にひろゆきさんに有ると見た。
もちろん、粗探し的な指摘が的中している事が三橋さんの原案の致命的な欠点である可能性も有る。
しかし例えば、ひろゆきさんの「よこしまな使い方」という批判について言うと、よこしまな使い方もされるでしょうけど、それはほんの一部です、だったら残りの大部分の有為な使い方をされる分だけ世の中よくなる、というのが三橋さんの意見です。
それに対して、有為な使い方をされる事を理由にしたのでは反論に成ってない、という意味の事をひろゆきさんは言いました。
これは、ひろゆきさんが三橋さんの意見を聞けてないのと、三橋さんが言葉で案内し切れてないからです。
全体的に、三橋さんもひろゆきさんも私より頭が良い面があって、私でも出来ない様な賢い切り返し方が随所に見られました。
しかし、それは小手先の攻防に終始していて、論旨対論旨の攻防に成ってなかったのが残念です。
誠実さの点でも俗人の口喧嘩では有り得ない様なレベルの高さが主に三橋さんの発言に複数回見られました。
けれど、誤魔化さない、という事をもっと厳しく考えるなら、最大の争点に議論の的を絞らない様に話す事も誤魔化すうちです。
三橋さんの発言に「通貨増刷は恥ずかしい事なんだと政治家から言われた」というのが有りました。
私は、この点をもっと突っ込んで欲しかった。
恥ずかしいって、どこが?
正義に反すると言うなら私も反対ですが、単にふしだらだと言うだけなら三橋さんの言う通りに幾らでもやればいい、というのが私の価値観や正義観です。
おカネの量を増やしても物価が変わるだけで売買される内容は変化しないなら、おカネの量を増やす意味が無いし、おカネの量を増やした弊害だけが出てしまう。
これが私の疑問の第1歩です。
インフレ率は十分に低く抑えられる、というのが、これに対する三橋さんの反論だと思うのですが、どうなんでしょう、GDPの増加は1%より大きいんですか?
インフレ率もGDP増も両方1%なら、物価が変わるだけで売買の内容は変わらない、という事に成りますよね。
三橋さんの言う通りにすると1980年代のバブル経済みたいに成るんですかねえ?
そっち向きに動かすんだけど、あそこまで行かない様に加減する、という事なら正論だと思いますよ。
ただ、1980年代は、バブルとは言っても、売り買いされる内容の方も相当に成長していたと思うんです。
その点が、今やったのではおカネだけが増えて売買の内容が伴わないのではないか、と心配される所でしょう。
産業空洞化のせいでそうです、って事は無いでしょうか。
また、今の日本人はもう昔みたいな仕事はしたくないんだ、という事も有るかもしれないし。
ひろゆきさんの発言からは、これを言いあぐねて粗探しみたいに成ってしまった、というニュアンスも感じました。
通貨発行パワーが原動力の米国が、タダで幾らでも刷れる通貨を他国が増刷すると自国の相対的優位が揺らぐ、と考えて、他国に通貨を増刷しない様に圧力を掛けている、というのが、三橋さんの意見があまり賛成を得られない本当の理由かもしれない。
日航123便の件をもっと蒸し返した方が良いかも。
猿でも出来る通貨増刷を自分達だけの専売特許にして、自分達にはそれが有るから自分達は他国には絶対に負けないんだ、とする考えが米国には有るかもね。
三橋さんは、今はコロナ危機なんだから平時ならいけない通貨増刷も今なら良いんじゃないか、と言いますが、おカネは持ってるが外出できなくて買えないという人ではなくおカネが足りなくて困ってる人に給付するならその通りですね。
しかし、コロナ危機って基本的に外出できないから売買できないってパターンですよね。
正義の観点からは、私のウェブサイトの「宇田経済学@持論@学問@宇田英才教室」というページに関連記事が有ります。
三橋さんの画像とひろゆきさんの画像の画質が違うのはアンフェアに見えた。

私の問題意識は、通貨を増刷して市場に出回るおカネの量を増やしても、例えば以下の場合には豊かさは変わらない、という点です。

BEFORE:100円のみかんを1日に10個売って得たおカネで100円のオニギリを1日に10個買って食べていた。
AFTER:101円のみかんを1日に10個売って得たおカネで101円のオニギリを1日に10個買って食べる様に成ったが、みかんの品質もオニギリの品質もBEFOREの時と同じである。

これでもGDPは増加しますが、豊かさは変わりません。

この様な問題について三橋さんは、豊かさとはGDPである、だってそれが豊かさの定義なんだもん、という風に言って考えようとしませんでした。
この点は、今回の討論での三橋さんの数少ない汚点のひとつです。

全体として三橋さんの態度には欠点がほとんど無かったけれど、そういう欠点は有りました。
ひろゆきさんはスーパー例外検索マシンみたいな感じだった。
その能力には一目置きますが、例外検索というジャンルには一目置けません。

三橋さんの考え方には、また、個人の自由な選択の集積で経済状態が決まるのではなく、個人の選択をマクロ政策が決める、という事に成りはしないか、という問題点も有ると思う。
成らない、という事なら良いのですが。
つまり、やりたいけど出来なかった事が通貨増刷のおかげで出来る様に成った、というのなら良いけれど、通貨増刷のせいでやりたくもない事をせざるを得なく成った、という事に成るなら問題が有るわけです。