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2019年10月31日(木曜日)
投資って何だろう(10)

利害対立の真の争点

中国が核心的利益という概念に辿り着いている事を私は肯定的に評価しています。
今日は、個人主義の立場から、核心的利益は何かを、もっと突き詰めたいと思います。

人間の利害の対立は究極的には、一生でどれだけの事をしたいか、の対立である。
これは人間に限らず生物一般に言える事だが、人間以外の生物ではほとんど繁殖だけに着目すればよいのに対して、人間の場合には繁殖以外の事も重要だ。

誰でも、自分にとって一番大切な事は、一生でどれだけの事が出来たかだ。
それ以外の事は、それほど大切ではない。

だから、それほど大切ではない事について権利が侵害された場合よりも、一生で出来る事を不当に減らされた事の方が、重大な権利侵害であるから、その罪を告訴しその様な権利侵害をやめさせる権利は大きい、と考えられる。

その様な権利は、単に他の権利に比べて相対的に大きいだけでなく、絶対に守られねばならない基本的人権に含められる必要が有る。

なのに実際には、その様な権利の主張およびそれを侵害されたとの告訴は、
言ってはいけない、とか、怖くて言えない、の類であるのがこれまでの社会の実態だ。
つまり、小さな権利侵害なら訴えてもよいが、最も肝心な大きな権利侵害については言ってはいけない、という恐怖社会、これが北朝鮮だけでなく全世界に敷かれている、という事なのだ。

これこそが
真の巨悪だ。

この権利の主張をし難い事は、次の様に考えれば分かる。

誰が殿様をやり、誰が家臣をやり、誰が百姓をやるか、の争いである。

自分の権利が侵害されたと主張する事は、お前を百姓に使う事はもったいなくないがオレを百姓に使う事はもったいない、と主張する事だ。

こう考えれば、この対立が人間社会において最も熾烈な対立である事、が分かろう。
オレはもったいなくないがお前はもったいないとは何事だ、という反発を買う事は目に見えている。

では、誰を何に使うのがもったいないとかもったいなくないとか、そんな失礼な事を言うのはけしからん、と考えて権利の主張を自粛する人が居るだろうか。

言ってはいけない、という考え方はそういう道徳を表す、と考える事も出来る。
職業に貴賎なし、という価値観がそれだ。

しかし実際の所は、誰もがこの競争をやめずに続行する、というのが実情であり、権利を主張させない、言わせない、という事は、その手段と成っている。
職業の貴賎で言うと、職業に貴賎差を感じる人が、貴職の奪い合い、賎職の押し付け合いの競争に勝つ為に、職業に貴賎なしとの価値観を武器として敵の口をふさぐ、というパターンです。

これは、権利の主張をするよりも、もっと不道徳ではないか。
不道徳どころではない、犯罪だ、それも犯罪の中で最も主たる犯罪だ。

権利の主張をさせない事は、
詭弁と暴力を手段として、達成されて来ました。
だから怖くて言えないのです。
詭弁としては、表現に必要な言葉を与えない、何でもマネー語で話す、平等を尊重しなければいけないという道理の逆用、が挙げられます。
だから私は、この問題を解決するには経済学を根本から見直す必要が有る、と考えて宇田経済学を作り始めたのです。

平等を尊重しなければいけないという道理の逆用としては、そもそも殿様や家臣や百姓という身分差別そのものが四民平等原則の適用開始以来ずっと否定されており、今ではもう誰もそんな事してませんよ、と言ってしらばくれる発言が挙げられます。

でも上司、部下という身分差別が露骨に続いてるじゃないか。
ハッキリ「上」「下」と書かれています。
だから身分差別は確かに現在でも続いている。

それでは私は身分差別を是認しているのかと言うと、是認していません。
私の正義観は、身分差別を不正だとする正義観です。
そこで、殿様・家臣・百姓に代わって四民平等を原理主義的に貫いた社会には何が有るのかを説明する必要が生じます。
身分に代わってフェアな社会に存在するのは、各個人の正直な感じ方です。
何を自慢に成ると思うかだ、と言うと分かり易いでしょう。

一生でどれだけの事が出来たかは、生産についてだけでなく消費についても問われます。
だから、この問題を消費についてしか問わない、という態度や、生産についても問うが主に消費について問う、という態度も、それを他者に押し付けない限りは、各人の自由です。

また何を自慢に成ると思うかも、人によって違い得ます。
そういう食い違いは、幸福な食い違いであって、当ページに書かれている対立の熾烈さを緩和してくれます。

実際には多くの人が同じ感じ方に殺到してしまうし、自慢に成ると思える程の生産が出来たか否かはマネー収入の多少を通して満足なだけ消費できたか否かと正相関します。
また、生産についての満足は死ぬまで残りますが、消費についての満足は消費完了までしか続かない場合が多いでしょう。

自慢に成る事をしたい、という欲求は、他者の業務の妨げには成りません、むしろ経済システムを通して他者の業務の助けに成るでしょう。
だから、「するな」と要求する正当な根拠は存在しません。
根拠を「不快だから」と答える犯人が居ますが、不快だからという根拠は正当ではありません。
なぜなら権利を侵害された人が権利を侵害された事に感じる不快の方が、もっと問題だからです。

一方、自慢に成るか否かは他者の手柄との比較で決まるので、この点で満足できるのは1位に成った人だけです。
ここで、殿様・家臣・百姓に相当する格差が出て来るわけです。
誰かが殿様(1位)をやれば自分は殿様(1位)に成れない。
自分がどんなに良い仕事をしても、他の人がもっと良い仕事をしたら、自分の仕事はもう自慢に成らないのです。
身分に上下は無いけれど、その代わりに功績の順位が有るわけです。
そして、この功績の順位において首位に成る事は、身分において最上なる事よりももっと大きな満足を感じさせる物です。

まず、1位に成る事が自慢に成る程度が最も高い種目で1位に成る。
次に、1位に成る事が自慢に成る程度が2位の種目で1位に成る。
そうやって出来るだけ多くの種目で1位に成る。
それが、出来たらしたいなあと誰もが思っている人生の目標であるはずです。

不正の害を受けなくても自分には勝てる見込みが薄いからもっと無難な選択を自分でするのは不条理ではないし、やってみたが出来なかった、人生を棒に振った、不正の害は受けなかった、というなら無念でも不条理ではありませんが、「お前は駄目だ」とか「これ以上は駄目だ」といって禁じられる事は基本的人権の侵害に及ぶ程の深刻な権利侵害であり不条理だから、それによって生じた人生の無駄使いは重度の犯罪被害です。

また、「お前は駄目だ」「お前はよろしい」と割り振る事は単純に差別であり、平等の原則に反します。
誰も身分差別なんてしてませんよ、という主張と矛盾するわけです。
下なる者が上なる者の功績よりも自慢に成る事をしてはいけない、この考え方が身分差別であり、平等の原則に反するのです。
種目間に貴賎差が無いなら、自慢に成る程度に種目差が無いなら、駄目だとは言わないはずですよね。

暴力について。

犯人: お前は駄目だ。
被害者: 何故ですか?
犯人: 聞こえないのか?
被害者: 聞こえましたが理由をまだ聞いていません。
犯人: 駄目だと言ってるんだ。
被害者: 分かってますよ、それは。で理由は?

こんな風に言ったら、この被害者どう成るんでしょうねえ。
「言う事を聞かない」「言う事を聞かないやつは犯罪を犯す」「頭がおかしい」
と言われるんですよ。
私には、全然分かりませんけどねえ、犯罪や精神病と何の関係が有るのか。
加圧して犯罪を犯させるぞ、精神病患者に仕立て上げるぞ、という脅迫および、加圧して犯罪を犯させる事、精神病患者に仕立て上げる事の実行が有るとしか思えません。
これは凶悪な暴力です。
これでも、集団ストーカーは無い、って思いますか。
集団ストーカーが無いなら、他にどんな方法が有ると言うんですか。
被害者がクビに成るだけ、といった表沙汰に出来る程度の事では無いんです。
クビにした上で全ての雇用者に連絡してどこにも再就職できないようにする等です。
実質上の殺人です。

「立ち上がれ」という文言を含む文章を準備していた事がインターネット使用開始前の私には有る。
それは多分、不法侵入によって盗み見られ、「立ち上がれ」という言葉も正反対の意味に曲解されて悪用されているだろう。
その悪用に対して「私が言いたいのはそういう意味では有りません」という事を何時か発表しなければいけないと、これまで私は考えて来ましたが、このページに書かれている事が、その発表に該当します。