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2019年10月29日(火曜日)
投資って何だろう(9)

昨日の記事を書きながら、これは宇田経済学でなくても既存の経済学でも既に書かれている事だろうなあ、と思った。

しかし、その後で、宇田経済学独特の主張をする準備として昨日の記事が有効である事に気付いた。
その主張を以下に書く。

原料屋以外の仕入れでの負担は、マネー残高が減る、という負担だけだから分かり難い。
しかし、原料屋は仕入れ無し。
ミシン購入費や人的負担が有る、と言うなら、原料の採掘権だけ売る、という方式を考えてみて欲しい。
それなら原料屋は丸儲けなのだろうか。
ここで、損得はマネーだけの問題ではない、という事が浮き彫りに成る。
原料屋については、マネーは入ってくる一方で出て行かない。
しかし、丸儲けなわけではなくて、売った分だけ資源が減るではないか。
資源の減分とその売価の大小関係は定義されない。
これを私は既に何度も言って来たので、またか、うるさいなあ、と思われるかもしれない。

そこで、ここでは、売上金で資源を買い戻す事は出来ない、という点を指摘しておく。
個々の原料屋については、他の原料屋から買い戻す事が出来るし、消費される前なら買い戻す事が原理的に不可能とは言えない。
しかし総量については、例えば石油の一部が消費された後で、石油の売上金を払うから誰か石油の総量を増やしてくれ、と頼んでも、その求めに応じる事が出来る者は誰も居ない。
従がって資源は、それが無駄使いされていないか、という基準でのみ損得が測られる種類のものであり、資源によって生み出された価値とその為に生じた資源の減りの大小関係は定義されない。
資源を益に変換する事は出来るが益を資源に変換する事は出来ないのだ。

宇田経済学では資源が減る事の痛みを誰もが感じるが、現行の経済では資源は偏って所有されているのでマネー収支だけで損得を考えてしまい資源の減りに無頓着に成りがちだ。
しかし誰でも薄っすらとなら感じる事が出来るはずだ、資源が減る事はそれを所有していない自分にとっても痛いと。

マネー収支の損得とは別に資源の減りという損が発生しいている事を意識する必要が有る。

その観点から見直すと、原料屋以外の業種の中にも、資源の減りを見付け出す事が出来る。
それは人的資源の減りだ。
人的資源が無駄使いされていないか、人的資源がもったいない事に成っていないかは、マネー収支がどうかとは別種の損得の問題として存在している。
人的資源の減りがそれによって生み出された益と相応しているか否かは、一生でどれだけの事が出来れば本望ですか、一生で出来た事がどれだけ以下だと無念ですか、という疑問文によって良く表現されるだろう。
この問いへの答は各人の主観によって個別に決まる。
マネー収支で損をしても、その事が直ちに不当とは限らないのと同様に、一生の使われ方が本望に成る権利という物は存在しないし、無念は必ず不条理のせいだとも限らない。
しかし、マネー収支で損をしたか得をしたかを判断する基準の資源版として、使われ方が本望かモッタイナイか、という基準は重要です。
そして、本当は誰もが究極的にはマネー収支の損得よりも自分が一生で出来た事に満足できるか否かを大事だと思うはずなので、自分にとってより大事な事を優先的に大事にするという最優先されねばならない権利がマネー収支の損得を理由に否定されるならば、それは本末転倒な不条理です。
その本末転倒な詭弁が人的資源を無駄使いさせる犯罪に利用されています。
例えば「飼い殺し」という言葉が有るでしょう。
これは重大な犯罪なのですが、これを取り締まる事は諦められているのではないか。
むしろ、社会全体が飼い殺しの原理で貫かれている、とすら言えます。
稼いだカネで人生を買い戻す事は出来ない。

2012年01月に私は、善悪の判断基準を明らかにする為に宇田経済学を作り始めました。
今日は、その目的を達成する方向への大きな進歩が有った、と感じます。