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2019年10月26日(土曜日)
投資って何だろう(6)

ミシンとリスク

単純化された問題ではなく実際の問題を考える時には、資源を益に変換する者は変換マシンを使う。
この変換マシン一般を宇田経済学ではミシンと呼ぶ事にする。
日本ではミシンという語は縫製用ミシンだけを指すが、そのミシンの語源は機械一般を指すマシン(machine)だし、実際の製造現場で用いられている変換マシンは縫製業でなくても縫製用ミシンに似ている。
中でも特に縫製用ミシンに似ている例としては、半導体を使った電子部品を製造する工程の中で極細の金線を張り付けるミシンを、挙げる事が出来る。
ミシンは、天然資源ではなく工業製品であり、その製造には別のミシンが使われるのが普通だ。
さらに、ミシンを製造するのに使ったミシンの製造にももっと下位のミシンが使われる、という風に、重層構造が存在するので、ミシンの提供を資源の負担として理解する問題は複雑すぎて今すぐには解けそうにない。
そこで、ミシンの提供の益だけを考えて見る事にする。

イノベーションについて考えた時にミシンの価格はミシンが出力する益の価格に等しいとし、その後今月に入ってから出力する益の量は不確実・不確定だからそれではミシンの価格が決まらない事に気付いた。

しかし昨日、さらに考え続けてみると、成功報酬方式の契約にすればミシンの価格はミシンが出力した益の価格に等しい、と出来るじゃないか、という事に気付いた。
つまり、ミシンの出力のうちで売れた分だけをミシンが出力した益としてカウントし、その売り上げが発生する都度その発生した益(に相当するマネー)をミシン販売者に支払う、という契約にするのだ。

これでミシンの価格を決定できたかに見えるが、ここで私はリスクの問題に気付いた。
成功報酬方式は、全てのリスクをミシン販売者が負い、ミシン購入者はリスクを全く負わない、という選択だ。
この選択だけが正しくて他の選択は間違っている、という道理は思い当たらない。
正反対の選択として、ミシンの出力が最も良く売れた場合の売り上げと同額のマネーをミシンの納入時にミシン購入者がミシン販売者に支払う、という選択も考えられる。
この選択では、全てのリスクをミシン購入者が負い、ミシン販売者はリスクを全く負わない。

投資とはリスクを負う事なのではないか。
成功報酬方式ではミシン販売差が投資したと見なされ、ミシン納品時全額払い方式ではミシン購入者が投資したと見なされる。
こう考えれば、投資という言葉の使われ方の常識と良く合致する気がする。
ミシン購入者とミシン販売者がリスクを分担する、という契約も可能だ。

ミシンにしても、ミシンが出力した製品にしても、売れるかどうか分からない物を売れるかどうか分からない個数だけ先に作ってしまうからリスクが発生すのであって、受注生産方式にすればリスクなんて無くす事が出来るのではないか、という点についても考えてみた。

受注生産方式にすれば、注文通りの製品を作り出す事が出来るか否かの点が不確実であり、この技術的不確実性に起因するリスクが発生すると考えられる。
このリスクを負うのは、成功報酬方式では受注者であり、発注時全額払い方式では発注者だ。
やはり、リスクを負った者が投資した、と考える事が出来るだろう。
特に、成功報酬方式で受注者がリスクを負う場合には、リスクは「負担が無駄に成るリスク」である事が分かり易い。

受注生産方式 生産先行方式
成功報酬方式 資源の負担が無駄に成るリスクを受注者が負う。
リスクの発生源は技術開発の不確実性。
資源の負担が無駄に成るリスクを受注者が負う。
リスクの発生源は需要の不確実性。
発注時全額払方式 マネー残高を減らした事が無駄に成るリスクを発注者が負う。
リスクの発生源は技術開発の不確実性。
マネー残高を減らした事が無駄に成るリスクを発注者が負う。
リスクの発生源は需要の不確実性。

現代社会の常識には、マネー残高を減らした事が無駄に成るリスクや損害ばかりが注目されて、資源の負担が無駄に成るリスクや損害が軽んじられたり無視される、という間違った傾向がクセとして有る。
この点は改められる必要が有る。

さて、ここで、リスクとは何かについて考えてみたい。
マネー残高を減らした事が無駄に成るリスクについては、金額と益の大小関係の問題だから、既に分かっている。
ただし、金額と益が相応しているか否かは究極的には主観の問題なのだった。
資源の負担が無駄に成るリスクについては、どうだろうか。
負担と益の大小関係は定義されないので、負担よりも益の方が大きければ得をした、負担よりも益の方が小さければ損をした、という風に考える事は出来ない。
得をしたか損をしたかは主観による判断と成る。
得か損か、という言い方よりも、満足(本望)か不満(残念)か、という言い方の方が適当だ。
負担率(負担÷益)が大き過ぎると死んでしまうので絶対に容認できない程度に不満であるか否かの基準はほぼ客観的だろう。
しかし、負担率がどれだけ以下なら満足かについては、感じ方の厳しさには限りが無いだろう。
人の欲望には限りが無いし、人の資質(低い負担率を発揮する潜在的可能性)の上限も不明だからだ。
特別に欲深くなくても資質が特別に高い人が自分の資質に相応な負担率でなければ不満だと考える事は当然の事であり、その相応な負担率は特別に小さい。