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2019年10月23日(水曜日)
投資って何だろう(4)

まだ正解には辿り着いていないが、色々な論点に気付いたので報告します。

(1) 誰も生産なんて出来ない、我々がしている事は全て消費だ。
例えば石油。
石油を投資する事によって石油を元本よりも増やす事は出来ません。
これは全ての資源について言える事であり、どの資源もそれを使って減る一方です。
我々に出来る事は資源を益に変換する効率を高める事だけであり、資源を増やす事は出来ません。
我々が生産と呼んでいる行為は、実は資源を益に変換する行為であり、本当の意味での生産ではありません。

(2) 同種同質同量の資源の売買価格が購入者の活用能力に応じて変わるのはおかしい。
例えば米3合を食べれば1万円相当の働きが出来る人には米3合を3千円で売り、米3合を食べれば3万円相当の働きが出来る人には米3合を9千円で売る、というのは価格決定方法として間違っているだろう。

(3) 売買が禁止されているのは人的負担のみであり、物的負担は売買が許されるのではないか。
宇田経済学では、基底状態として、万人が均等に物的資源を私有している状態を考えるので、これならば誰も物的資源を他人から購入する必要は無い。
しかし社会の現状では物的資源は偏って所有されているので、物的資源の売買という物を考えてみる。
物的資源の売り量は売った人の資源の減り量でカウントされるので、物的資源を売る事は負担を売る事に当たる。
物的資源の買い量も買った人の資源の減りの減免量でカウントされるので、物的資源を買う事も負担を買う事に当たる。
物的資源を売る事は与益であり物的資源を買う事は受益だと考える事も出来るが、負担量と益量の大小関係は定義されないから、資源の電子マネー価格を決定する規則が不明である。

(4) 資源を自分で益に変換する能力は不足しているのが普通だから他者に変換を委託するのではないか。
宇田経済学の基底状態で考える1人当たりが私有する資源は膨大な量であり、それを売ってはいけない、自分で益に変換しなさい、という事に成ると、誰もが自分の資源を持て余す。
それで自分の資源を他者に売るのではなく、益に変換するサービスを他者から受ける、という形で他者に渡し、変換によって得られた益は自分が受けたり、自分が他者に売ったりする、という取引が考えられる。
この場合も、渡した資源とそれが変換されて戻って来た益の大小関係は定義されない。
その上、変換サービスに対して電子マネーを支払う事も考えられる。

(5) 現行の常識では投資は資源を投じる事ではなく資金を投じる事だと考えられている。
資源を投じるという事ならば(4)や自分で変換するという事に成ろうが、資金を投じるという事ならば、それは資源を購入する事に当たる。
資源を購入するというのは(3)の意味に成る。
そこで、資源の価格は資源を変換して得られる益の価格に等しくなくてもよいので、差額を儲ける事が出来る可能性が生じる。
だが、この部分こそ一番怪しい部分なので、後で熟考する必要が有る。

(6) 資源ではなく製造マシンを購入するのも投資だが、製造マシンを売る事は負担の販売なのか。
製造マシンを買う事は負担の減免の購入だと考えられるが、製造マシンを売る事も負担の販売なのか。
また、製造マシンの購入も、それまで自力では出来なかった事をしてくれる製造マシンの購入については、負担の減免の購入でもない。