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2019年05月10日(金曜日)
次世代の世界一の天才へ(29)

(2e1) 人生の意味がもう分かった人へ。

人生の意味を発見して不特定多数の人に教える、というのは世界一の天才の仕事ではないか。
それは哲学に属するので以前述べた様に世界一の天才の仕事としてふさわしい。
事によると人生の意味は既に発見済みであり広く一般に知られているのかもしれない。
だとすると次世代の世界一の天才には、人生の意味を発見して不特定多数の人に教える、という仕事はもう残っていない。

仏教などの色々な宗教が既に人生の意味を教えているかもしれない。
その中には既に正解が含まれているかもしれない。
しかし私の耳に入った言説に限れば、まだ誰も正解に辿り着いていない、と私は思う。

例えば霊魂不滅を前提とする説。
霊魂不滅というのは、自分が医学的な意味で死んでも意識は持続する、遺伝情報が子孫に受け継がれる事や著作物が社会に受け継がれる事だけでなく、自分本体が死なずに残る、滅びるのは自分の衣たる肉体のみであって自分の本体たる魂は滅びずに永続する、という考えです。
この考えを前提にして、現世(医学的な意味で死ぬ以前)は自分の魂を訓練する練習場に過ぎず本場は死後の世界だとか、医学的な意味で死ぬと同時に別の人や生物に生まれ変わる事を繰り返す輪廻転生を主主張する説が有ります。

しかし、まず、これらの説は人生の意味は何かを答えていません。
仮に霊魂が不滅だとしても、じゃあ医学的に死んだ後のまだ生きてる自分本体は何の為に生きてるんだ、という質問に答えてないからです。
輪廻転生説も、今生は次生以降の為に有る、としても、じゃあ次生以降は何の為に有るんだ、という質問に答えていません。
僧にたずねれば答えるかもしれない。
しかし、そこで答えとされた目的は何の為なんだ、という追問を際限なく繰り返せば、もう答える事が出来なく成るでしょう。

世界一の天才には、最も肝心な事は自分にしか分からない、という自覚が必要です。
古文典籍を縦横無尽に引用してすらすら読み上げ、自分をその僕とし、自分がその上位に立つ事をしない、という態度は哲学者として間違っています。
何事も本当にそうかどうかを判断するのは究極的には自分だ、という責任感が大切です。

さて人生の意味なんて、そんなに簡単に分かるものでしょうか。
既に言われている事がどれもまだ十分な答に成っていないとしたら、人生の意味は何か、という問題は相当難しい問題だと見るべきでしょう。

人生の意味がもう分かった人へ。
分かるに至る過程で、どうしても分からない、という経験を何度もしましたか?
そういう経験をしていないならば、あなたの「分かった」は本物ではない可能性が高い。

そういう人は、例えば自分が既に持っている予備知識だけで意味が分かる数学の難問を解こうと努めてみるのがよい。
「絶対に解けない」級の難問です。
私にとってはそれは例えば物理学の量子力学の観測問題でした。
既に解かれてしまいましたが四色問題なんてどうでしょうか。
2次元平面上のどんな分割も四色で塗り分ければ境界線は必要ない、これを証明しろ、という問題です。
解けるまで粘ると人生を潰してしまいますので適当な所で諦めるべきですが、「あ、そうだ、こうすれば出来るかも」というアイデアを何個出しても、ことごとく阻まれる、そういう経験が出来ます。
そういう経験をする事によって、難問の正解とはどんな物かを嗅ぎ分ける嗅覚が育ちます。
これは、人生の意味は何か、という問題を解くコツのひとつを会得する事が出来る、という事です。
「どうしても解けない」「コレも駄目」「アレも駄目」という状態に成っていなければ、まだ正解にはかすりもしていない、それどころか、まだ歯が立っていない事すら自覚できていない、という事です。

霊魂不滅説は、私にとって、答えではなくて、考える必要を無くする逃げ道です。
ナポレオンズという手品師が「ははあ磁石だな」という素晴らしいギャグを持っていましたが、私にとって霊魂不滅説は「ははあ霊魂不滅だな」です。
霊魂不滅という逃げ道をふさいだ時に初めて「どうしても解けない」「コレも駄目」「アレも駄目」という苦境に立たされ、それでやっと問題を問題として受け止め始めたと言えます。

私は物理学をやって来たせいもあって長い間唯物論者でしたが、近年のIT概念の普及に啓蒙されて、もう十年以上前からソフトウェア・ハードウェア二元論、言い換えればメディア・コンテンツ二元論、あるいはフォーマット・コンテンツ二元論という思想に到達しました。

ソフトウェア・ハードウェア二元論なんて、近年のIT概念の普及を待たずとも、何十年も前にコンピューターが出現した時からヒントは与えられ続けて来たし、コンピューターが無かった時代でも、書籍の本質は紙とインクではなくそれらによって表現されている意味ですよね、という考え方が出来たはずですが、私は思い至りませんでした。
ソフトウェアも煎じ詰めればハードウェアだ、という考え方をしてしまったからです。

ソフトウェア・ハードウェア二元論の観点から言うと、私って何ですか、という問いへの答えは、私の肉体をメディアとしているソフトウェアです、という事に成ります。
これでも、DVDを焼却するとそれに記録されていたソフトウェアも失われるのだから、霊魂不滅には成りません。