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2019年04月29日(月曜日)
次世代の世界一の天才へ(28)

(6a1) 民主主義の意味が違う。

私は、次世代の世界一の天才へ、というタイトルでメッセージを書いて来たが、当然の事ながら、世界一の天才というのはひとりしか居ない。

あなたがそうだ、と言う事も、あなたは違う、と言う事も出来ないが、少なくとも、ただひとりの例外を除いて全ての人は違う、という事だけは確かだ。

「自由競争をすると1位に成った人だけが幸せな気持ちに成り、他の全ての人は不幸な気持ちに成る」と私に言った人が居る。
間違っているとは思わなかったので私は反論しなかった。
しかし「ただし、その事は自由競争を否定する正当な理由には成りませんよ」とコメントしておく必要が有った、と後で悔やんだ。
私に「自由競争をすると・・・」と言った人は「だから自由競争は否定されるべきだ」という意見を持っていた様だったからだ。

ひとりだけ、ないしは、ごく少数の者のみがスカッと爽快な人生を送って、残りの全ての人は人生の大半を敗北感とか劣等感という薄ら嫌な気持ちを引きずって生きて行くなんて民主主義じゃない、という人が居るかもしれない。

民主主義というものを、平均的な人の幸福を最優先する事、という風に考えれば、そういう事に成る。
しかし私は、民主主義というのは、そういうものではない、と考えている。

民主主義においては幸福は、統治者が民に与えるものではなく、民が自分で作り出す物である。
統治者は、それが出来る土俵を与えるだけだ。
その土俵には、防犯機能や医療保険は含まれ得るが、普通ではない程度にまで特定の民や民全員を富ませたり幸福にする事は含まれない。

一方、民が自助努力で富んだり幸福に成る事については無制限である。
それに統治者が制限を課す事は民主主義に反する。

成功が無制限であるなら、自分がどんなに成功しても、他の誰かが自分を超える成功をすれば、自分は相対的に敗北者と成る。
それを防ぐ為に他者の業務を妨害すれば、それは犯罪であり、これを防ぐ事は民主主義の統治者の仕事だ。

つまり正しい民主主義は必然的に、フェアな自由競争の肯定であり、最大の成功者を民の中から出す装置なのだ。
そして、それは、爽快か憂鬱かという点において、優勝者のみを爽快にし、他の全ての人を憂鬱にしても、正義なのだ。

ただひとりの例外を除いて全ての人がこの憂鬱に耐えねばならないのは、それ以上には成らないからだ。
正義を王座から追い出せば、そこに不条理が座る。
そうなったら薄ら憂鬱どころでは済まないって事だ。