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2019年04月20日(土曜日)
陰謀論で言われる人口9割削減計画について

AさんがBさんの権利を侵害し、BさんがAさんに権利侵害をやめなさいと言っても、Aさんは自分の方が強いからBさんの言う事を全く聞かない、こういう場合、権利侵害の内容だけでなく、そこでAさんが依拠している自分の強さも、Aさんの罪を見積もる要素として数えられる。
その強さがとても大きいのでAさんはBさんの言う事を無視し続けても、それに対してBさんは為す術が無い、という風にAさんが高をくくっていればいるほど、その分だけAさんの罪は重い。

罪が重い、という事は、その分だけ重い罰を課しても、話がそこで終わり、その罰に対する正当な報復という物は存在しない、という事です。
自分の方が強いから、その様な重い罰を自分に実施できる者は居ない、という場合でも、そういう罰を課してもよい、課す必要が有る、という状況は永遠に続きます。
与えられた時間の間だけ敵に隙を見せないで居る事の難しさは、その時間が長ければ長いほど大きい。
したがって、どんな強者でも永遠にという事に成ると、心配です。

悪用した強さの分だけ受ける事が懸念される罰が重い、という事は、強者も弱者も正義の前には平等である、正義を歪める強さなんて何の役にも立たない、という事です。

さて、Aさんは全人類の9割の人々であり、Bさんは残りの1割の人々だとしましょう。
Aさんの強みは人数の多さです。
この場合、AさんはBさんよりも圧倒的に強い、それはあまりにも圧倒的なので、もし上記の型にはまる権利侵害をAさんがBさんにしているならば、Aさんに課される罰は皆殺しぐらいが丁度よい。

そして実際に該当する犯罪は存在していると私は考えています。

この様な理屈を背景とした独り言を私はよく自室内で言うのですが、陰謀論で言われる人口9割削減計画は、私のその独り言を盗聴した者から来ているのではないか。

Aさんが全人類の1割の人々であり、Bさんが残りの9割の人々であるなら、AさんがBさんを皆殺しにするのは、もちろん正義のかけらも無い事です。

陰謀論者の言う人口9割削減計画は人口問題を解決する手段みたいに聞こえた。
アクション映画にも勝手な理屈で大量虐殺によって人口を削減しようとする悪役が登場するが、この問題について私はひとこと言っておきたい。
人口のコントロールを大量虐殺で行なうなら、百年とか数百年に1回という風に定期的に繰り返す必要が有るから、そんな方法は駄目です。
大量虐殺しても時間が経てばまた人口は元通りの過剰値に戻ってしまうのだから。
それが分からない犯人なんて居るはずがない。
大量虐殺を繰り返すつもりの犯人が居るなら、それは、ちょっと、やめてもらいたい。
1回だけでも問題なのに、それを何回でも繰り返しなんて、痛過ぎると思いませんか。

それから、人は殺されなくても寿命が来れば自然に死にます。
だから、出生数が老衰死亡数より小さければ人口は減ります。
人口のコントロールが必要なら、中国のひとりっ子政策の改良版を考えるのが正道でしょう。
日本の様に少子化が自然に生じる場合だって有るのだから、人口のコントロールが必要に成らない可能性も有ります。
その場合、逆に、人口抑制ではなく人口を増やす必要が生じますが。

大量虐殺というものを私は、それ自体だけを見て否定するのはやめました。
ヒトラーによるユダヤ人虐殺や原子爆弾の事です。
何に対しての大量虐殺なのか、そこまで見て是非を判断する必要が有ります。
どんなに悪い事をしても、大勢でやったから、という理由で許される道理は有りません。
逆に、大勢であればあるほど罪は重いはずです。
それに対してであれば大量虐殺が妥当である様なそれ、という物は選択してはいけないという正義と同時に選択肢としては存在しています。
例えばヒトラーによるユダヤ人虐殺について、そのむごさばかりが放送されて、虐殺した側の虐殺動機が全然放送されないと成ると、ユダヤ人には何か身にやましい事でも有るのか、という疑念が生じるのが当然だろう。

という風に、どんな残酷な事でも相応の報いとしてであれば否定されない、というのが基調としては私の一貫した正義観ですが、私は2016年に心理的な著しい不調を伴う不調に陥り、その際に恐怖心や喪失感などの良くない感情が極めて強く沸き起こって来て、誰であれこんな目に遭わせてはいけない、どんな悪人であっても、とまで思った。
その時に私は、相応の報いとしてであっても残酷には上限を置くのが正義だ、と判断した。
喉元過ぎれば暑さ忘れる、というわけで、今ではそれを実感しないが、今の自分の方が分かっていない、という気持ちが大切だ、と自戒している。

マスコミの報道番組では「どんな事があっても暴力はいけない」とか「どんな事があっても殺人はいけない」という決まり文句をよく聞きます。
なのに、それとセットで、具体的な暴力事件や殺人事件については、暴力や殺人が報復として相応であるか視聴者が迷う様な事には全然満たない事が原因だった、という話で収めようとする強い傾向が存在しています。
「どんな事があっても」なんだったら、こんなに酷い事が有ったけどもちろん駄目ですよね、と言えるはずです。
それを避けるのは「どんな事があっても暴力はいけない」とか「どんな事があっても殺人はいけない」という道理の正しさに自信が無いからです。
間違ってるんだから、自信が無くて当然です。
いや、間違ってると分かっていながら言ってるんでしょう。
もう「おはようございます」とか「良い天気ですねえ」と言ってるのと、ほとんど同じ。
減点はされないかもしれないけど、何の働きにも成ってない。
これが現代のテレビの報道番組のキャスターのコメントのレベルです。

本論に戻ります。
まずAさんを殺したい人が居て、その人がAさんを誰かに殺させる事を目的に、Aさんに死刑相当の罪を犯させる工作をした場合、その工作がどんな些細な事でも、その工作の罪はAさんの罪よりずっと重い。

ついでの話ですけど、犯人は全人口の1パーセントだ、と主張する陰謀論者が居ますが、1パーセントという数字は、1993年か1994年に千葉で自室内で私が独り言として言った事を盗聴した者から来ている、と思われます。
その私の独り言の内容は、自分ももう随分と勉強を積んだので全人類の上位1パーセント内に入るレベルに達しているだろう、という内容でした。