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2019年04月17日(水曜日)
次世代の世界一の天才へ(22)

(9a1a) 学問は、研究したいからでなくても、勉強したいからやってる、でも構わない。

音楽という分野を例に取ると分かり易かろう。

音楽家を親に持つので幼少期から特別な英才教育を受けた、という人は別だが普通音楽は鑑賞する事から始める。
そして、鑑賞が高じて演奏したく成り、演奏では飽き足らなく成ると作曲し始める。
一生を鑑賞だけで終わる人も、演奏までで終わる人も居るだろうけれど、順番としては普通はそうだ、と思う。

肝心なのは勉強ではなく研究だ、と私は書いたが、研究する能力を獲得する為にでなければ勉強してはいけない、という道理は無い。
勉強で獲得した能力を世の中の役に立てる為に、である必要も無い。
勉強は、したいからする、で構わない。

私自身、かなり年齢が進むまで、研究したい(=学問上の生産をしたい)という気持ちは、勉強したい(既に明らかにされている事を見て自分の疑問の答えを知りたい)という気持ちよりも、弱かった。
つまり私も、ある時期までは、勉強はそれ自体が目的であって、研究の手段ではなかった。

しかし見て下さい、今の私を。
結局研究する様に成っています。
成果も出しました。

学問の勉強は音楽の鑑賞や演奏に、学問の研究は音楽の演奏や作曲に、例えられます。

学問の勉強や音楽の鑑賞は、生産ではなく消費です。
投資だという見方も成り立ち、それも重要ですが、私が言いたいのは、行為者主観で見た時に消費のつもりでやっているのでも構わない、という事です。

昨日書いた様に、行為者が何の為にやっていようが、それをやると結果的に有為な何かを生産する事に成る、という傾向性が存在していれば、その行為に対して支払う事は経済的に間違っていないのです。

昨日の私の話は、研究は世の中に役立つ結果を出す為にでなくても研究したいから研究しているでも構わない、という話だったと言えるので、今日の私の話は、それをさらに一歩進めた話だと言えます。