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2019年03月09日(土曜日)
次世代の世界一の天才へ(11)

(8) 宇田雄一の哲学はポジティヴ哲学です。
私は未だ宗教を代替する哲学の研究には着手していない、と書きました。
また宗教を代替する哲学の研究は次世代の世界一の天才に任せ、私は科学までしか研究せずに一生を終えようか、とも考えています。
そこで次世代の世界一の天才の仕事を取ってしまっては悪いんだけど、私には既に意図せずして心の底からにじみ出て来た、と言うか沸き起こって来たと言うか、義憤にも似た思想が有ります。
これは、既に私の頭に思い浮かんでしまったので、もし次世代の世界一の天才が考えても肝心なのはそこだ、という事であれば、次世代の世界一の天才は宗教を代替する哲学の始祖に成れない事に成りますが、ガリレイに成れなくてもニュートンやアインシュタインに成れれば十分に名誉な事だしガリレイに終わるよりもその方が名誉な事だとも言えますので、次世代以降の世界一の天才にも手柄に成る仕事は幾らでも残っていると思います。
私の思想は「正の哲学」と呼ばれるべき物です。
それは、負の哲学の逆だ、という意味です。
しかし、正の哲学と言ったのでは、その事が伝わらず、誤の哲学の逆だ、という意味かな、という風に誤解されるおそれが有ります。
そこで私は自分の思想をポジティヴ哲学と呼ぶ事にします。
それが何かは、負の哲学すなわちネガティヴ哲学とは何かを説明すれば、分かるはずです。
負の哲学とは、罪と罰、破損と復元、犯罪と防犯、病気と治療、不幸と救済、被雇用疲労と金銭的手当て、損害と賠償、苦痛と忍耐、これらの概念枠組みを使って人間社会での出来事を解釈・評価する哲学です。
キリスト教においてイエス・キリストの主たる功績は、道理を教えた事ではなく、磔刑で殺される事によって人類の原罪を償った事だ、とされていると思います。
これはキリスト教が負の哲学である事を良く表している、と思います。
工業製品に限らず農業のノウハウや保険契約等まで含めた広い意味でのテクノロジーが未発達だった時代には、人間社会での出来事には負の哲学で解釈・評価される範囲を超える部分が少なかっただろう。
しかしテクノロジーが発達した現代においては、負の哲学で解釈・評価される問題は本当は大方解決済みなのではなかろうか。
残っている問題は本当は、遠い将来の大きな困難だけではないか。
遠い将来の大きな困難とは資源の枯渇やゴミ問題(二酸化炭素による地球温暖化は広い意味ではこれに含まれる)です。
本当は、尻に火がついた様に解決を急ぐ必要の有る問題は当分は存在せず、その期間は、遠い将来の大きな困難を解決する為の大切な猶予期間に成っている、のだと思う。
テクノロジーが一時的に負の問題を追い越したそんな現代においては、注目に値するのは、遠い将来の大きな困難を解決する仕事の進捗状況と、ポジティヴな価値を創造する事だけです。
遠い将来の大きな困難の解決に寄与する事も、ポジティヴな価値を創造する事も、非常に難しいので、それが出来るのは才能や能力が理由でごく一部の人に限られ、大部分の人は注目に値しない、関心の対象とは成らないのが本当です。
それに甘んじなければいけない注目に値しない人々が、関心の対象と成らない事や、それでは生計が成り立たなく成るのを避ける為に、マッチ・ポンプや赤鬼・青鬼の様な感じで、本来生じないはずの災厄をもたらしているのではないか、と私は非常に疑っています。
色々な(実は種類数は少ないのが笑える)陰謀論を私は、そういう目で見ています。
つまり、陰謀ありうる、という風にです。
二酸化炭素による地球温暖化問題も陰謀によって解決が妨害されている、と私は見ています。
これについては、ハルマゲドンが来る事に成っているあの宗教が怪しいですね。
そういった事情を、負の哲学が人類の足を引っ張っている、と表現できるのではないか。
ネガティヴ哲学への私の批判、私のポジティヴ哲学は、宇田経済学で言うと、負担ベースではなく与益ベースで考えろ、という指摘、相対正義論で言うと、防犯コストは犯人が支払うべき物だ、という指摘を見た時に感じられるでしょう。
人類人類と書きましたが、人類以外の動物も大切にして下さいね。
キリスト教にもポジティヴ哲学は含まれて居ます。
それは神による創造です。
神による創造はキリスト教においても自己犠牲等のネガティヴ哲学上の価値よりも上位に位置付けられていると思いますが、創造は人間には無理だと諦められていると思います。
イスラム教では創造は神の独占行為だとされて人には禁止されているのではなかったか。
キリスト教でも、人工的にヒトを作る、といった行為は否とされるはずです。
私もキリスト教のそういうところまでは間違っていると思いませんが、しかし、キリスト教の神は、言語を分裂させるという方法を用いてバベルの塔の建設を妨害しました。
私は自分の言い分が他者に伝わらない様に工作されていると感じており、それをバベルの塔の話と非常に似ていると感じると同時に非常に悪質だと感じています。
それで私はキリスト教の神がハッキリと嫌いに成りました。
神は居ないと私は思っています、だから、神に成り代わって誰か人間が妨害しているのでしょう。
同じ事です。
改めて明言します、キリスト教は宇田雄一が是としない宗教です。