since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2019年03月 >
< 08日 >
2019年03月08日(金曜日)
次世代の世界一の天才へ(10)

(2f) 言うだけなら誰でも出来るのか?そんな事は無い。
法律を成立させようとしたら1つ成立させるだけで一生が終わってしまう、けど考えるだけでよいなら一生で十個でも百個でも法律を考え出す事が出来る。
だから世界一の天才は実務家を目指すな、と私は書いた。
世界一の天才は体験する事も大切ですが良く見聞きし最大限考え最大限教える役割を担うべきです。
学問を実務や実業より劣る物として蔑む実務家や実業家は「言うだけなら誰でも出来る」と言います。
そうだとすると、言論という物に認められる手柄は、筆記や印刷や配布や朗読という作業に認められる手柄つまり手間仕事に認められる手柄と同程度でしかない事に成ります。
果たして本当にそうでしょうか?
そんな事はありません。
実際には、手柄に着目すると山の頂上の高さでは言論山の方が実務山よりも高い。
その事を私はマルクスと共産主義国の首脳を例に取って説明しました。
それなのに、どうして「言うだけなら誰でも出来る」という誤解が生じたのでしょうか?
誰でも自分が専門にしている分野を最もひいきにするから、というのも理由のひとつだと思いますが、それだけではありません。
過去に誰も言わなかった新しい事を最初に言う事が絶望的なまでに難しい、難し過ぎるので出来る人は誰も居ない、という前提を置いてしまっているから、というのも理由だと考えられます。
既に前から言われている事の受け売りに話を限るから「言うだけなら誰でも出来る」と思われたのではないか。
新しい事を最初に言う事がなぜ難しいのか、出来る人が誰も居ないと思われるほど難し過ぎるのか、その理由は、言うだけなら誰でも出来るに近いからです。
その事情は、天体を発見する事と、その天体に行く事の違いに例えられます。
天体を発見する事は天体に行く事よりもはるかに易しい、天体に行く事は天体を発見する事よりもはるかに難しい。
天体に行く事に比べれば、天体を発見する事なんて、発見するだけなら誰でも出来る、と言われても仕方が無いぐらい易しい事です。
発見する事は易しい、すると、どうなるか?
天体を新しく発見しようとして何か見付けても、その天体はあなたが見付ける前に他の誰かが既に見付けている、最初に見付けたのはあなたではない、という事に成ります。
そのため結局、天体の第1発見者に成るのは難しい、という事に成ってしまうのです。
まあ、それでも、発見する方が行くよりは易しいでしょうけど、そこは説明の為の例え話だと割り切って下さい。
ここまでで天体の例え話を使って私が説明した道理は、
一般に試験結果で首位に成る難しさは試験問題の難度とは無関係だ、という法則にまとめる事が出来るでしょう。
試験問題が易しければ自分も高い得点を出せるけど他の人も高い得点を出せてしまうのです。
従がって、言うだけよりも実行する方が難しいけれど、言論の競争で首位に成る事も実務の競争で首位に成る事と同様に難しいわけです。
学問的に新しい事を考え出せば、その手柄の方が大きいが、学問なんて物は幾ら研究しても既に正しいと分かっている事がますます正しいと分かるばかりであって、学問的に新しい事が考え出される事なんて土台無い、その限りにおいては実務での最高の手柄が学問まで含めた全ての分野に渡っての最高の手柄だ、そういう見切り方をして、それに基づいて進路選択をした人も居る。
そういう人は、学問において本質的に新しい発見は無い、という前提が間違っている事にもし気付いたら、学問における本質的に新しい発見が思ったよりずっとwiseであるのを見たら、取り乱す事に成る。
「相対性理論は間違っている」という間違った主張を持論とする論者を相間トンデモと呼ぶが、ある相間トンデモの著書の末尾付近に「日の下に新しいものは無い」という文が見られました。
聖書か何かの一節を引用した物だと思われますが、これは上に私が書いた精神分析の正しさを裏付ける。
世界一の天才には、その轍を踏まないで欲しい。
問題の易しい試験で首位に成るとは例えば解答速度で首位に成る事だと思いますが、そういう場合の首位者の解答速度は驚異的であるのが普通です。
言うだけの世界にも言うだけなら易しいが故の実務家が想像だにしない程の驚異的な優秀性が首位に成るには必要なんです。
言うだけなら誰でも出来るって、私が宇田経済学として書いている事を私より先に言った人が居ますか?
私が宇田経済学として書いている問題を解決するには、宇田経済学が必要ではないですか?
既存の経済学は、私が宇田経済学として書いている問題を表現する言葉を持たない為に、それに基づいて実務を幾ら頑張っても不条理は発見されずに潜伏したまま永久に加害を続ける事が出来てしまいます。
私が相対正義論に書こうとしている事も、そういう事なんですよ。