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2019年02月27日(水曜日)
次世代の世界一の天才へ(6)

(4)と(5)の番号付けを間違ったので、次は(6)からです。
(4)の番号は(3c)とすべきでした。

(6) 世界一の天才は自分の人生に公的な意味を求める事が出来るのみで、私的な意味を求める事は出来ない。
逆に凡人の人生には、私的な意味が有るのみで、公的な意味は無い。
あなたが世界一の天才ならば、あなたは生まれた直後からマークされています。
ひょっとするとあなたが生まれる前からあなたの父母もマークされるているのかもしれません。
この事は、誰が世界一の天才かは誰にも分からない事と矛盾しますが、私の場合はそうだったと認識しています。
誰が世界一の天才かは、その人が業績を出すまでは証拠立てる事が出来ないだけで、本人にも周りの人にも本当は分かっているのかもしれません。
あなたが世界一の天才だとして、あなたが自分の人生に私的な意味を求める事が出来ないとは、どういう事か?
それは、あなたの父母も兄弟姉妹も友人も恋人も全て、あなたをマークしている団体の回し者だ、という事です。
例えば私には誕生月日が同一の友人が居ますが、これはその友人が回し者である証拠です。
知り合った何年も後に、その友人は私に誕生月日が同じである事を指摘しました。
それまで私は誕生月日が同じである事を知りませんでした。
誕生月日が同じだと、私の様な疑い方をしない人なら、例えば運命の出会いだという風に考えて、警戒を緩めたりアドヴァイスに応じ易く成ったりするでしょう。
それが狙いなのです。
犯人が手持ちの駒の中から私と誕生月日の同じ人を選んで遣わしたのでなければ、偶然出会って友達に成った人と私の誕生月日が同じである事は、確率的に考えて起こらなかったでしょう。
回し者はスパイであると同時にハンドラーであり外交官であり役です。
ハンドラーという言葉の意味を私は、正しくとらえていないかもしれませんが、次の様に考えています。
例えば大人が働いていて公共スペースに居る子供が邪魔に成った時、「邪魔だから退け」と言っても「あなたが優先される理由は無い」と言い返されて退かせる事が出来ないかもしれません。
そんな大人は「おい、誰かあの子供を何とかしてくれ、邪魔なんだ」と叫びます。
そこで出て来るのがハンドラーです。
ハンドラーは子供に「ぼうや、あっちにクマさんが居るから一緒に見に行こうか」と言って、子供を退かせます。
子ども扱いが上手い、とか、女の扱いが上手い、と言う時の扱い、これを行なう人がハンドラーです。
世界一の天才は、あまりに多くの利権を有する(べく運命付けられている)為に、個人でありながら、あたかもひとつの大国であるかのごとくであり、従がって扱われるのです。
本当の理由を告げてあなたに利権の一部や全部を譲るように頼んでも、あなたがそれに応じる事は絶対に無いでしょう。
誰も自分の命を部分的にであれ譲り渡す事には絶対に納得できないからです。
だから、相手はやり方を変えて頭を使ってハンドラーを遣わすわけです。
あなたが世界一の天才なら、あなたの父や母は肉親であっても本当の父や母ではなく父役と母役であり、肉親ですらそうなのだから友人や恋人が役を務めているに過ぎないのはなおさらの事です。
あなたが世界一の天才なら、あなたの私的な人間関係は全て虚構です。
あなたが世界一の天才なら、あなたが付き合うべき相手は、前世代までの世界一の天才と次世代以降の世界一の天才であって、現在生きている人々ではありません。
生存期間が異なるので、異世代の世界一の天才と生きて会う事は出来ません、著作物を通しての通信に限られます。
現在生きている人と影響し合う事に意味が有る場合もあるでしょうけど、それも著作物を通してに留めておくのがベストであり、私的な人間関係は必要ないだけでなくボーアとアインシュタインの喧嘩みたいな嫌な思いをもたらすだけです。
自分の人生に私的な意味が無い事は、何でもない時には何でもないですが、気に成り出すとかなり辛い事です。
自分が私的な人間関係を温める事を最初から切り捨て続けて来た、その結果そういう要素が自分の人生には全く無い事を悲しんで「あああ」と声を上げて泣く夢を今朝私は見ました。
凡人の人生には私的な意味が有るのみで公的な意味は無い、というのは、その逆で、この事を示す面白いテレビ・コマーシャルが有りました。
それは子が母に向かって「お母さんの作ってくれたおにぎりはとても美味しい」と言うと背後に非血縁者が飛び出して「誰が作っても大体そんな感じに成る物なのよ」というツッコミ発言をして水をさす、という物でした。
「~の素」系の食材のコマーシャルだったと思います。
それを使えば誰でも美味しいおにぎりを作る事が出来る、という商品性能を抜群のギャグで表現している秀逸なコマーシャルだと感心しました。
劇外では子供にそんな事を言うべきではない、と思いますが。
自分の人生に公的な意味が無い事も、気に成り出すと辛いかもしれません。
少なくとも、やれば出来たかもしれないのにしなかった人にとっては、辛くて仕方ないでしょう。
20才頃の私は、歴史に残る様な公的な意味の有る事を出来ずに自分の一生が終わる場合を思い浮かべた時、死に伴う恐怖に近い物を感じました。
世界一の天才に「譲れ」と言う事は「死ね」と言うに等しいのです。

(6a) 世界一の天才は泳ぐ人であり、他の全ての人は海である。
「Googleの検索結果で4位以内に入っていなければ、その人はこの世に居ないのと同じだ」という発言を何年も前にテレビで見た事が有ります。
また、例えば高校野球で、1回戦で勝てば頭の中は2回戦以降での対戦相手の事で一杯に成り1回戦での敗者は意識に上らなく成り、2回戦でも勝てば頭の中は3回戦以降での対戦相手の事で一杯に成り2回戦での敗者も意識に上らなく成ります。
これって悪い事ですか?
これを悪いと言っちゃあ厳し過ぎます。
当然の事ですよね。
世界一の天才は決勝戦の事しか考えていません。
決勝戦に出ない人の事は、痛い目や苦しい目に遭っていないか心配だ、という形でしか世界一の天才の関心の対象には成りません。
これは当然の事なんです。
本件のシリーズを世界一の天才ではない人にも読んで欲しい、というのは、そういう関心を持たれない人が関心を持たれない事に腹を立てて決勝戦の妨害をする事に、それは駄目です、という意見を私が書いて行こうと思っているからです。
どの個人に対しても他の全ての人全体は海水でなくてはいけません。
これは、世界一の天才に対して他の全ての人が、というだけでなく、世界一の天才も他の個人に対しては海水の一部でなくてはいけない、という事です。
それがルールです。
このルールの下でフェアプレイして優勝した人が世界一の天才です。