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2019年02月20日(水曜日)
次世代の世界一の天才へ

新年の挨拶として01月の早い時期に書きたかったが、先に済ませなければいけない雑用が幾つも有ったので、書き始めるのがこんなに遅く成ってしまった。

そのせいで、何を言おうと思っていたか、雑用をしている間に忘れてしまった。

しかし、もう書き始めないと無期延期に成ってしまう恐れが有るので、整然としない文章に成ると思うが、書きながら思い出して行こうと思う。

(1) 上には上が居る(有る)、というのは間違いだ。
人口は有限なので、各世代(各時代)に限れば、誰かが首位であり、それを超える人は居ません。
その首位者が世界一の天才です。

(2) どういう種類の能力が最も重要なのかはハッキリしない。
能力の種類ごとに、その能力の首位者が居ます。
どういう能力がどういう能力より重要なのか、どういう能力が最も重要なのかが決まっていなければ、能力の種類の数だけ居る首位者の甲乙を付ける事が出来ず、分野限定なしでの世界一の天才は定義されません。
どういう種類の能力が最も重要なのかは究極的には、各人の自尊心がどういう種類の能力を最も気にするか、に還元されるべき事です。
自分の自尊心が最も気にする種類の能力において首位である人は、他の誰がその種類の能力を重要ではないと言おうが、幸せです。
しかし実際には、自分の自尊心がどういう種類の能力を最も気にするかには個人差はあまり無い事、が強く疑われます。
たいてい誰でも、自尊心が最も気にする能力は大脳の働きの中に有り、その中でも最も気にされるのは哲学での生産能力である様です。
そうでない人がそうでないのは、たいていは哲学の事を良く知らないからに過ぎません。
四則演算の暗算能力程度なら、それは大脳の働きだけれども、それよりは小脳や筋骨の性能を主とする武道の実技能力の方が、自尊心に気にされる場合が多いでしょう。
しかし、大脳の働きの中でも、四則演算の実行力の様な低級な能力ではなく、理論物理学に新しいパラダイムをもたらす、といった様な高級な能力は、小脳や筋骨の性能の中で最も高級な能力よりも、誰の自尊心にも気にされるでしょう。
哲学における最高級の業績は、理論物理学に新しいパラダイムをもたらす事より、もっと上です。
この様に、どういう種類の能力が最も重要なのかは原理的にはハッキリしないが、しらばっくれず素直に省みれば実際問題としては分かり切った事だ、という面があります。
一方、最近の人工知能の目覚しい進歩によって示唆される様に、世界一の天才は万能なのかもしれない。
ある分野だけで首位に成ったのは、その分野を選択したからであって、世界一の天才なら、他の分野を選択してもその分野で首位に成ったはず、なのかもしれない。

(3) 世界一の天才は生まれた時に既に決まっているが、それが誰かは誰にも分からない。
私は才能、能力、業績という言葉を大雑把に言って、
(能力) = (業績) ÷ (努力)
(才能) = (能力) ÷ (努力)
という風に使い分けます。
世間一般では、才能と能力を混同した発言が横行していますが、私の言葉使いでは才能とはあくまで先天的才能の事であり、それに訓練や学習を加味して得られた後天的能力とは区別されます。
したがって世界一の天才とは、生まれた瞬間に才能が世界一である人の事です。
今わたしは「世界一の天才へ」という題でこのページを書いていますが、まず、それはあなたではありません。
「あなたはそうだ」と言われた人も違います。
次に、そう言われて「いや、私だ」と思う人の中に世界一の天才は居るし「あなたは違う」と言われた人の中に世界一の天才は居る。
また、「私の事ではない」と思う人の中に世界一の天才は居るし、本件は「私の事ではない」と思う人にも読んで欲しい。
あえて矛盾を含む言い方をしましたが私が言いたいのは、誰かが世界一の天才なのだが、それが誰なのかは誰にも分からない、という事です。
不正の被害に遭った、本人に野心が無かった、運が悪かった、という理由以外では世界一の天才には誰も勝てません。
世界一の天才が生まれた時点で、それが確定しています。
しかし、誰がそうなのか分からないので、確定していないも同然です。