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2018年12月22日(土曜日)
米国女子体操セクハラ事件について

忘れないうちに書いておく必要がある、と思ったので書く。
コメントすべき問題が次から次へと発生するので、思い付いたら直ぐに書かないと言いそびれる。
そうやって言いそびれさせる事も集団ストーカーの手口だ。

昨夜テレビで米国の女子体操選手多数が顧問の医師から長年に渡ってセクハラを受けていた、という内容を含むドキュメンタリー番組を見た。

その顧問の医師の名はラリー・ナサール(Larry Nassar)。

テレビでは百数十人の被害者が名乗りを上げた、とされていたが、インターネットで調べてみると、期間は20年以上で被害者は数百人に上るだろう、という記事も有った。

近年はセクハラという言葉でごまかす悪い習慣が蔓延しているが、強姦が有ったのか無かったのかをハッキリと聞けなかった事は残念だ。
強姦の有無によって罪の重さには雲泥の差が出る。

さて、私が是非ひとこと言っておく必要が有るのは、このナサールという人の勤務環境が犯行開始前に、何者かによって犯行への誘惑が増加する環境に変更されていないか、詮索する必要が有る、という事だ。

犯行への誘惑が大きい勤務環境というのは、犯行してもその事が(被害者と自分以外の)誰にも察知されない環境です。

ナサールに犯行させるために故意にそういう勤務環境を設定した者が居れば、その行為はナサールの罪よりも重い、というのが私の相対正義論の思想の一部です。

これは、被害女性に敵対する考えではなく、被害女性の報復を幇助する考えです。

ナサールというのは名前の語感から判断してWASP(アングロサクソン人種の白人でキリスト教プロテスタント派信者)ではないだろうと思う。
これはアメリカ合衆国の伝統的な悪役イメージの範疇から脱する物ではありません。

そういう人種が出世する事を嫌う集団がナサールを罠に掛けた可能性が有ります。

そして人種差別という物は、昔は露骨に行なわれていたのだろうけれど、それの否定が主流と成り誰もが「していませんよ」と白を切らざるを得なく成った現代では例えばそういう狡猾な形で実行されるのだろう、と想像します。

だったらナサールは無罪か、という問題の答えは直ぐには分かりませんが、罠に掛けた人々も犯行時のナサールと同じ環境下に置かれれば同じ罪を犯したはずだ、とは言えると思います。

こういう罠を掛ける者は、こうすれば必ずこう成る、という風に判断したはずだからです。
それは、自分なら必ずこうするだろう、という判断に基づきます。

実際には、そういう罠を掛ける者は、犯行に有利な条件が成立していない、という情報を得る機会をナサールの様な人よりも多く持ちます。
それは集団ストーカーのネットワークから情報が得られるからです。

そして集団ストーカーによる同様の犯罪は揉み消され、被害者は悪くすると被害妄想だとして精神病院に強制入院させられます。

本件で立ち上がった多数の女性被害者の皆さんには、そういう被害者の救済にも目を向けて欲しい。

ナサールの参加によって米国女子体操の成績が飛躍的に向上した、と聞きます。
ナサールの犯行開始がそれより後ならば、ナサールの商売敵がナサールを罠に掛けた事が疑われる。
しかし、そういうタイミングで犯行が始まったなら、ナサールの勤務環境が犯行に有利な方へ変化した、という事が有っても、それはナサールの業績に伴う自然な変化なのか罠なのか判別が困難です。

もっと勘ぐると、ナサールが米国女子体操の成績を飛躍的に向上させた事は、審判員がナサールと結託していて不正な判定を行なう事によって米国女子体操選手を試合に勝たせた、からかもしれません。
そうだとすると、ナサールの方が罠に掛けるよりももっと悪いですね。

ともかく何でも、こういう事を一々疑って掛かる必要が有ります。

2018年は日本ではボクシング山根、ラグビー日大、レスリング栄、女子体操パワハラ、と不祥事の発覚がラッシュしましたが、これはアメリカの黒点の影響が遅れて出た物らしい、と昨日の米国女子体操セクハラドキュメントを見て思いました。

日本物理学会2018年秋季大会@学会発表@活動報告@学問に私が論文の査読の不正について告発記事を書いている事への反応だとも思います。

あ、そうそう、ナサールという人名と日本語の「なさる」の発音上の類似性も気に成る。
日本語の「なさる」は「する」の尊敬語です。
これについては「なさる」と言うのが最も美しいのに、これを「おやりになる」という聞くに堪えない言い方で言う人が多かった時期が有ったので、「なさる」という言葉に引っ掛かりを感じてしまった集団ストーカー犯が居る事は十分に有り得る。
「おやりになる」という言い方からは私は、この言い方をする人が、嫌々尊敬語を使っていて、その嫌さを言葉に反映させずには居られない、という理由でこの言い方をするのだ、と感じた。
「下さる」と言うべき所で非常に広範囲の人が口裏を合わせて異口同音に不当に「頂く」と言うのと同根だと思うので、まあこれも集団ストーカー由来だろう。