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2015年03月05日(木曜日)
所得格差と富の偏在は別(宇田経済学の話の続き)

A, B, C, Dの4人だけが存在する社会で、AはBとだけBはAとだけ取引し、CはDとだけDはCとだけ取引し、A,BとC,Dの間には全く取引が無い、とする。
取引相手の選択として、AはBの第一志望、BはAの第一志望、CはDの第一志望、DはCの第一志望だとする。
また、最初にA,B,C,Dが持っていた所持金は全て同じだった、とする。

この前提で、AとBは活発に取引を繰り返し続けたが、CとDは必要最低限の取引しかしなかった、ならば、所持金格差という意味での富の偏在は無いにもかかわらず、A,Bの所得は高くC,Dの所得は低い、とういう形での所得格差が生じるが、A, BがC, Dから富を収奪している、といった様な不公平は全く存在しない。

国交断絶で取引が無い、という2国間関係があるが、これには、そういう背景が有るのではないか。

富の偏在という事実には圧倒的な負のイメージが伴うが、この負のイメージを活用して所得格差を否定するのは詭弁だ、という事だ。
富の偏在によって生じている所得格差と、そうではない所得格差を混同してはいけないし、富の偏在も、正当な由来を持つ物と、そうでない物を混同してはいけない。

そういう分別を全部排して「格差」の一言で片付ける態度は、正当な格差をリセットする事を狙っての物である疑いが強い、と思う。

A, B, C, Dの上記の関係において、A, Bを妬んだC, Dが、A, B間に不公平が存在するという解釈を、知恵を絞ってひねり出し、AかBに熱心に吹き込み、A, Bの相互取引を不調に陥らせる、という調略法があるが、自由主義国内に共産主義思想を宣教する事はこれだ、という指摘を何かの本で読んだ事がある様な気がする。

ただし、どういう不公平がどこに存在するのか、それは本当に不公平なのか、という問題は、それ自体として正しいか否かを詮索すべき問題であり、悪意に基づいて捻出された問題だから論ずるな、とは言えない。