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2015年03月01日(日曜日)
精神病院に入れるぞは言論に対して

2015年02月28日の前日ぐらいに、麻原彰晃を死刑にすると神の様に成るからいけない、という過去の父の発言(オリジナルではない感じがした)について確認した。
麻原彰晃が犯罪の指導者だからいけない、という意見であって、そうでない人でもいけない、という意見ではありませんよね、と尋ね、そうでない人でもいけない、という意見ではない、という返答を得た。

2015年02月28日に父と口論した。

上記の質問を私が何故したか、の話から入った。
次の様な事を言った。

ブルース・リーは暗殺された、と私は思っている。
ブルース・リーは犯罪の指導者ではないが、人気絶頂期に惜しまれながら死んだ事によって人気が不滅化した。
その事を犯人は、しまった、と思っているのではないか。

先日の後藤健二さんの件について、拘束されて直ぐの頃、やや批判気味の感想を持っていた私に父は、この人は全部自分が責任を持ちます、と言って出掛けたので批判される余地は無い、という風に言ったのに、殺害された後で、私が父に、後藤健二さんの様なやり方だと問題は無いわけだからそれを範型にすれば、何でもかんでも一律ダメというわけではないかもしれませんね、と言った際には、父は私に、それなら犯人の要求を音読してはいけない、とコメントし、私が、その点についてはそうですね、という風に反応した、という事が有ったが、この時にも、犯罪の指導者ではない人でも殺された誰かがヒーローに成るのは好ましくない、という感じ方を父がしているのかな、と思った。

何かの人気が固定化すると、民業競争の結果を左右する駒が一つ減る。
それは、黒でも白、白でも黒、という風に何でも左右できなければいけないんだ、と考える人にとって都合が悪いだろう。
成り行きに任せなければならず、コントロールしてはいけない経済競争の結果についてまで、どちらの方がいいですか、といって話し合って、それじゃあこうしましょう、という風に決定する方式を通用させようとする人だ。
(何でも話し合いで決める、というのには、そういうコントロールをするかしないかが含まれており、コントロールをするという意味には成らないのだが)

不快について説明した。
不快であるか否か、不愉快であるか否か、という問題は、どの感受者についてか、という事と、何を不快だと感じるか、という事を曖昧にしたままでは、詭弁が生じる。
「何を」については、特定の誰かが優勝する事が不快であるか否か、という問題以外に、八百長を不快に思うか否か、という問題が存在する。
成るに任せれば優勝して欲しくない人が優勝するからといって、そう成らない様に結果をコントロールすれば、それは八百長であり、八百長はもっと不快だから、不快感の発生を避けるという方針と、放っておけば優勝しそうな人の優勝を不快に思う事から八百長が肯定される、という事には成らない。
その点をしらばくれて、八百長をどう思うかについては全く触れず、特定の誰かの優勝を不快に思うか否かについてだけ訊いて回り、その結果を根拠にして、八百長が支持されています、という風に主張するのは、世論の悪質な我田引水である。
(理屈と感情を対立する概念であるかの様に言い理屈を拒絶する態度への、理屈は感情のヤリクリの最善策である、という私の反論を説明する良い例だろう)
「誰が」については、八百長で負けさせられた選手も不快だと感じる、その選手のファンも不快だと感じる、という問題が有る。
それらの不快感の存在にもしらばくれて、不快忌避原理で行動するとこう成ります、といって八百長を強要する態度は、詐欺を装った強盗だ。

そういう一般論を述べた後で、具体例として石川遼の話をした。
石川遼の成績不振は何かされての事ではないか、という単純で平凡なコメントだ。
試合中にではなく、試合に出るまでの準備期間中に何か練習や調整を妨害されているのではないか、という漠然とした憶測を念頭に置きながら、発したコメントだった。

すると意外な事に父から、そう思う事がお前が病気である良い証拠だ、という激烈な誹謗中傷の言葉が返って来た。
あまりに不当な言われ方だったので、今までの経験を教訓に即座に、「へ?ものすごく変な事を言ってるぞ、ちょっとメモしとくわあ」と言って、以下のメモを取った。

「石川りょうの成績不審は何か工作された結果ではないかと思う事を父に言ったら、そう思う事が病気だ、と今言われた。2015/02/28/13:39頃」

どうしてそうしたかと言うと、父がこの様な態度の時には、その後私が理を尽くして反論し、その論理が幾ら強力であっても、父には最初の態度を最後まで貫く傾向があり、そう成れば、父が私の意見への納得の意を表明する、という事は到底望めないからだ。
話がこじれた場合に、その責任が父の最初の発言にある事を証拠として残しておかないと私のせいにされるので危ない、と感じた。
また、私を病気だとする主張全般の暴論的特徴を証す貴重な発言例なので、自分の身の潔白を証明し、自分の身を暴力から守る為に、これを紛失してはいけない、と感じた。
父の私に対する発言は、いつもこの様な論調に満ち満ちているが、いざそれを採取すると成ると、この例の様な台詞を採るのは非常に困難だ。
その意味貴重だったのだ。
犯人が私の何に対して強制入院だと言っているのか、私の発言に対してだ、という事がハッキリと出ている。
つまり、そんな事を言うヤツは拉致・監禁して痛め付けるぞ、というのが犯人のメッセージなのである。

私と同様の被害を受けた人は過去に多数居るはずだが、おそらく、犯人から言われた言葉を具体的に挙げる事が出来なかった為に、犯人の「お前は病気だ」という発言は妥当な物だったのではないか、という風に第三者に思われてしまって、分かってもらえず、そのため被害が行き着く所まで歯止め無く行ってしまった、というケースが多いはずだ。
そういう人が犯人から言われた言葉は、具体的には、上に挙げた様な言葉です。
今後の防犯に役立てて欲しい。

論争的見地からは、相手が自分の意見に対する評価を正直に言わない場合には、相手の意見を記録して、あなたの意見はこうだったですよね、という形で、撤回するまでいつまでも恥じさせる、というのが最も正攻法だ、という見解に私は、まだ学生だった頃に至った。

私は、メモした後で話を続けた。
録音していたわけではないので、抜けが有ったり順序が少し違っていたりするかもしれないが、大体次の様な内容だった。

私:強制入院の制度が背景にあるので、「病気だ」という揶揄はセクハラどころではない暴力だ。
父:それなら訴えればいいじゃないか。
私:「ればいい」という事には成らない。
父:どうしてだ?
私:説明は、しない。
父:説明できないだろうが。
私:出来るが、しない。出来なければ間違っている、という事にも成らぬ。
父:間違っているから理由を説明できないんだ。
私:違う。言ってる事が正しいか否かと説明できるか否かは別だ。
父:自分で説明できない事を正しいと感じるのは病気だからだ。
私:それも違う。
父:お前を病院に連れて行こうと思えばいつでも連れて行ける、という風にもう私は言われているからな。
父:どうしてこんなに成るまで放って置いたのだ、と警察等からも責められるのは私だ。
私:そこで誰が責められるべきで有ろうと無かろうと、少なくとも私が悪いという事は無い。
父:病気だからそう言う。
私:それも違う。
父:病気の人は自分を正しいと言うのだ。
私:病気でない人も自分を正しいと言うので、自分を正しいと言えば病気だ、とは言えない。

父:名誉毀損・・・
私:名指しされているのは擁護されている石川遼だけであり、避難されている人は名指しされていないから、名誉毀損には成らない。
父:不特定の人の名誉を毀損する事に当たる。
私:そういうのは名誉毀損には成らない。
私:私の発言は誰かに対する名誉毀損ではなく、石川遼を擁護する物だ。
私:特定の個人(石川遼)を擁護する私の発言に対して、その様な激烈な反応が返って来た事は、ズボシだったからではなかろうか。

父:お前のせいで血圧が上がったわあ。(と言って血圧を測り始めた)
私:そっちの脅迫によるこっちのダメージこそが問題なのであって、そっちのは自業自得に過ぎない。

私: 大リーグが有力選手を買うのは自分で使う為ではなくライバル・チームに使わせない為だ、という仮説を父が私に開陳し、私がそれを慧眼だと褒めた事が有った様に、お父さんは自分でも私の今回のカングリに似た様な事を言っている。

私:したがって、お父さんは、そういう意見を言う人は病気だ、とは考えていないはずだ。


過去に父から、優勝しなかった石川遼の方が優勝者よりも大きく取り上げられる、というテレビニュースのやり方はおかしいよね、という風に尋ねられて、その通りですね、と答えた事が過去に何度も有った。
その他にも、石川遼の将来性に見切りを付ける様な感想を父から聞き、その時の父の様子から石川遼を嫌っている印象を受けた事も、複数回有った。
それらの事があったので、メモの発言の直前か直後ぐらいに私は、「お父さんは石川遼が嫌いみたいじゃん」と語りかけたら、父から「そんな事はない」と否定されたが、反論はしなかった。

ルックスが良ければ成績が悪くても成績の良い人よりも評価される、というのではいけない、というのが私の意見で、この事を父は知っていて、この情報に対してこう聞けば雄一はこう答える、という見込みの下で私に尋ねたのではないか、という気がしている。
しかし私は、ルックスが良ければ評価されてはいけない、と考えているわけでもない。
成績が良いのにルックスが良いから評価されない、のもいけない、というのは当然の事だ。
成績が同じならルックスが良い方が人気が出る、という傾向にはむしろ好感を感じる。

これ以上踏み込むと私から聞きたくない答えが返って来る、という境界の一歩手前で私に質問を繰り返し、聞きたかった答えを何度も答えさせ、それをもって、踏み込んで聞きたい答えが返って来たのと同等だ、とする、という曲解の手口を仕掛けられている感じを受ける。

何年か前に元旦にテレビで石川遼が出てプレーしているゴルフ番組を見て、元旦の気分に非常にマッチしていたので、翌年からも見ようと待ち構えていたが翌年から無くなった、という事が、石川遼が何かされているのではないか、と私が思う理由の1つだ、という事も、メモの直前か直後ぐらいに父に向かって言った。

父には言わなかったが、私が一番異変を感じるのは、石川遼の顔だ。
つまり、顔に出ている、というのが、私の受けた印象だ。

また最近では、私は自分の空手の練習を非常に邪魔される経験をして、その事によって、そういう妨害についての他の被害者に対する推測能力が高まっている。
特に、妨害されても告発して妨害を除去できるはずだから石川遼が妨害されている事は無いだろう、という考えについては、出来るだけ捉え所の無い方法で妨害し、苦情に対しては、言い掛かりを付けられたとか、誤解された、の一点張りで通す、という方針を犯人が取っているから、そうは言えない、という事を私はハッキリと実感している。

名誉毀損の基準については、公衆の面前での発言ではなく私宅内での1対1の対話であった事も、名誉毀損の成立を妨げる。