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2015年02月27日(金曜日) | ||||||||||
格差の何が問題か | ||||||||||
学校のテストの結果に大きな格差が見られた場合に、片や百点の人が居る一方で20点の人が居て、これではいけない、という主張を例に取って考える。 まず、誰がいけないのか、について。 20点でカッコ悪い思いをしている人が居るのに自分だけ百点を取ってカッコ良いあなたは配慮に欠ける、と言って、百点の人を批判する言葉だ、という事は絶対に有り得ない。 百点を取った人だって居るのだからやって出来ない事ではないのに20点に終わったあなたは努力が足りない、と言って、20点の人を批判する言葉だ、という事は有り得る。 先生の教え方が、ある生徒には役立つが別の生徒には役立たない物だからそう成ったのだ、これではいけない、という意味である事は有り得る。 テストの問題が悪いから結果に大きな格差が見られたのであり、これではいけない、という意味である事も普通は無いだろう。 先生の教え方も妥当だし、テストの問題も適切で、怠惰を批判するつもりもなく、まして愚鈍を批判する事が正義に反する事もわきまえており、そうであって欲しくない事が掛け値なしの人間の本当の姿である事を指して、いけない、と表現している可能性も有る。 私が高校生時代に授業で、成績分布のグラフが二瘤ラクダの様な概形をしている、と先生が言うのを聞いた時に感じたのは、このニュアンスだった。 ただし、私が卒業した高校は入学試験が非常に難しい事で有名な高校だったので、先天的に愚鈍な生徒は居なかった。 次に、どういけないのか、について。 百点の人を批判する意見であっても、20点の人を批判する意見であっても、百点の人が20点の人から何か盗った、とか、20点の人が百点の人から何か盗った、という内容ではない。 先生の教え方やテストの問題が悪い、という意見であっても、それは、せいぜい先生が百点の人や20点の人から何か盗った、という意味に成るだけであり、百点の人が20点の人から何か盗った、とか、20点の人が百点の人から何か盗った、という効果が生じた、という含意は無い。 この様に、学校でのテスト結果については、要は妥当な格差であるか否かであって、格差が有る事自体は問題ではない。 特に、百点を取った人が、その事で、賞賛される事はあっても、非難される事は無い。 学校は病院ではないから、低得点者への教育を高得点者への教育より優先する事も不公平である。 妥当な格差とは、公平な教育が行われた場合の結果の格差だ。 それに対して、貧富の格差の問題については、格差が大き過ぎてこれではいけない、という発言には何か、百点の人や先生が批判され20点の人が味方されている様なニュアンスが、伴う。 これでは、学校のテストで百点を取る様な行為への批判との区別がハッキリせず、ドサクサに紛れてそういう行為まで否定する詭弁の温床と成る。 社会には得点の上限は無く、百点を超えて幾らでも高い得点が存在する。 学校のテストで百点を取る様な行為については、そういう結果を目指す事は、奨励される事であり、そういう結果を出す事は賞賛される事だ。 これを否定する意味での格差批判は、ほとんど暴動扇動に等しい間違った意見である。 格差の批判は、批判されるべき格差と妥当な格差の境界を明確にしてから、するべきだ。 どんなに公平な社会でも、高得点の人の得点が伸びれば格差は大きく成る(そういうのを昔はブッチギリと言ってもてはやしたではないか)のであり、それを、格差だからいけない、とするのは、抜け抜けとサカサマを吹っ掛ける行為、恥と誉のすり替え、高得点の人への侵略である。 そして、どういう格差の何がいけないかを曖昧にしたまま格差を批判する意見は、そういう侵略を狙っているから曖昧にしたままなのだ、と感じて、非常に腹が立つ。 |
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