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2015年02月02日(月曜日)
罠が有る場合の正義2(相対正義論の話)

記述の完成度を高めると体力のヤリクリに無理が生じるので、これでも書かないよりはマシだ、という程度でも書く事にしました。
昨日の記事でも、そうしました。
一つの記事を1日で完成させる必要は無く、何日にも渡って手を加えて完成させるのでも良いではないか、と思っています。
今日は、昨日の記事を、もう少し整然とした形に書き直す事を試みます。
昨日の記事の件については、相対正義論@持論@学問内に清書を始めようか、とも思いましたが、アイデアが出尽くすまでは日記に留まる、というスタイルを習慣付ける努力が必要だ、と判断しました。

チェックポイントは以下の諸点だ、と思う。
(1) 故意の罠であるか、自然に生じた問題であるか。
(2) 罠によってターゲットが負担の増加を避けられなく成るか否か。
(3) 罠に掛からない事の難度(普通以上ではないか、義務以上ではないか)。
(4) 不公平(ツンボサジキ、狙い撃ち)の有無。
(5) 罠に掛かった場合の行為をターゲットがしたか否か。
(6) 罠で試されている悪い性質をターゲットが持っているか否か。
(7) 罠によって試されている性質をターゲットは秘密にしておきたいか否か。
(8) 罠に掛かるタイミングより前にターゲットが罠の存在に気付いていたか否か。
(9) ターゲットは同じ問題への直面を回避するよう努力していたか、故意が無ければ回避し果せたか。
(10) 掛かったら処罰される罠か、掛かったら自損事故に見える罠か(危険という損害、実損)。
(11) 行為への処罰か、性質への処罰か

場合毎に私の正義観を書くと、次の様に成ります。

(5)した、でも、(1)故意(8)気付いていた、ならば、(6)持っている、とは限らない。
(1)故意(5)した(8)気付かなかった、でも、(1)自然(5)した、でも、(6)持っている、と推定される。

(1)故意(5)否(8)気付いていた、ならば、(6)持っていない、とは言えず、従って、(1)故意、の場合、(5)否、だけを根拠にして、(6)持っていない、とする推定は不確実だ。
(1)自然(5)否、ならば、(6)持っていない、と推定される。

(1)故意(5)否(6)否、ならば、罠を掛けた事はターゲットに対する失礼な行為だ。
(1)故意(5)否(10)自損事故、ならば、罠を掛けた人はターゲットに危険という損害を与えた事に成る。
(1)故意(5)した(10)自損事故、ならば、罠を掛けた人がターゲットの(11)性質に対して実損を罰として課した事に成り、その正当性は後で検討する。
(1)自然(5)した(10)自損事故、ならば、これは自損事故か災害だ。
(1)自然(5)した(10)処罰、ならば、これは普通の意味でターゲットが犯罪を犯して処罰されたケースだ。

(3)ほとんどの人が掛かってしまうほど難しい、ならば、(5)した、であっても、ターゲットの性質が普通以下である、とは言えない。
(1)故意(3)義務以上、ならば、(5)否、は義務ではない。
(3)義務以内、であっても、(1)故意(4)有、ならば、(10)処罰、は不公平である。

(1)故意(5)した(6)持っている(9)努力していた回避し果せた、ならば、悪いのは全部罠を掛けた人であり、ターゲットは悪くないばかりか被害者である。

(1)故意、ならば、罠はターゲットの試験を受けない自由を侵害している。
(1)故意(2)成る、ならば、特にそう言える。
(1)故意(7)しておきたい、ならば、罠はターゲットを、プライバシーが侵害される危険、に晒す。
(1)故意(7)否、であっても、ターゲットに(7)の是非を確認していないので、罠はターゲットのプライバシーへの危険行為である。

試験を受けない自由は、試験を受けるか受けないかを自由に選択する権利であり、そんな言葉は無いが、そういう権利は一般的な自由の中に当然含まれるはずだ。
ボクシングのチャンピオンと試合をするにはチャンピオンからの承諾が必要だ。
私生活で一方的に喧嘩をふっかけて勝負させる権利は誰にもない。
義務教育の範囲を超える学校での試験は、そこを卒業するためには受ける必要があるが、試験も受けない卒業もしない、という選択をする自由は有る。

(1)故意(5)した(8)気付いていた(10)処罰、の場合には、ターゲットが、一方的に負わせる行為には一切付き合わない、との方針に基いて(10)処罰の依拠する形式的なルールを臆面もなく平然と踏み倒す事は、正当であり、これを私は推奨されるべき行為だと考え、その結果生じた一切の損害は罠を仕掛けた人の責任に帰せられる。

(1)故意(5)否、ならば、ターゲットに何を要求する事も出来ず、罠を掛けた罪だけが残り、罠を掛けた人が知らん顔をして逃げるのは掛け逃げであり卑怯だ。
(1)故意(5)否、によって生じた罠を掛けた人の窮状は、罠を掛けた人の自業自得であり、その程度は、(3)難しければ難しいほど大きくなる傾向があろう。

道路交通の場合、(1)故意(3)自然には生じないほど難しい、ならば、(5)否、は義務ではなが、(1)自然、ならば、(3)90%の人が瞬時には正解できないほど難しい、であっても、(5)否、は便宜上の義務だ。

(10)自損事故は、バチが当たる、という言葉で表現されている物だろう。
(10)危険という被害を実損に含めるか否かの判断は保留。

相対正義論では、行為や規則の内容を入れ子状に無限に広げるので、罠を掛ける行為をした事が罠に掛かった事である、という状況も視野に入っている。

(1)自然(10)処罰、ならば、(11)行為への処罰だ。
(1)故意(9)努力していた回避し果せた、ならば、(11)性質への処罰だ。

以下、(11)性質への処罰について考える。
まず、性質への処罰という物はほとんど語義矛盾だ、と言える。
性質は基本的にはその人そのものであり変更は不可能であり、それを否定する事は、その人に「居てはいけない」という事であるから、何人も自分の性質について、どうでなくてはいけない、という義務を原則負わない。
罰等の外圧で矯正できるのは行為のみである。
行為への処罰という外圧で行為を矯正できない、というのが当該性質である場合、性質の治療や侵入禁止・侵入阻止が正当化される。
防御のために一方的に強要できるのは、侵入禁止だけであり、治療と監禁を正当化する事は無理だろう。
防御の為にではなく本人のために、という事であれば、治療と治療目的の監禁が、身体病院で正当化されているのと全く同じ文脈においてのみ、正当化され得る。
そして、その様な性質は、止めさせる権利を他者が持っている様な行為を生まざるを得ない性質だけだ。

(1)故意(3)義務を超える(4)不公平、ならば、その罠で試されるのはそういう性質ではない。
したがって、そういう罠に対して(11)性質への処罰は不当である。
では、罠を掛けた人は、自分は悪い事をしているんだ、と考えながら罠を掛けたのかと言うと、そうとは限らない。
罠を掛けた人が、自分は正しい事をしているんだ、と考えているとしたら、それは、どういう場合だろうか。
それは、罠で試されているのとは別の性質や行為に対する処罰として正当である、と考えている場合だろう。
そして、そのルールの正当性の如何こそが本当は議論されるべき問題なのだが、それを犯人が隠して表に出さない、という傾向が有る。
それは、一つには、それは形式的な法律には明白に違反している行為を肯定する考えだから犯行動機でしかなく、それを出す事は尻尾を出す事に等しいからであり、もう一つには、もっと話の通じる相手に論駁されてそれに納得してしまうのが恐いからだろう。