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2015年01月24日(土曜日)
不平等の正当的起源2(宇田経済学の話の続き)

2015年01月22日の記事に書いた事を理論化したい。
本質は、出来るか出来ないか分からない事があり、それに挑戦するかしないかは自由意志によって選択される、という事ではないか。

出来るか出来ないか分からない事はしたくない、という人に無理強いしてさせる事は、その人への侵略であり、正当ではない。
挑戦したい人にそれを禁止する事も、その人への侵略だ。
したがって、どうしても、したくない人はしない、したい人はする、という事に成る。
したいからした人については、結果的に出来ても出来なくても、それは自分で決めて自分でやった事だから、良きにつけ悪しきにつけ報いは全て自分が受ける、という理屈に成る。
そして実際に、出来たり出来なかったり、という形で結果に差が出る。
こうやって、したいからした人の間に結果の不平等が生じ、それを否定する事は不条理である。
さらに、したいからした人としたくないからしなかった人の間にも、結果の不平等が生じる。
大雑把に言って、して成功した人は富み、しなかった人は変わらず、して失敗した人は貧しく成る。
この差を均す事もまた、して成功した人への不条理な侵略である。

たとえば、地震予知の研究をしていて特定の都市に明日大地震が来ると確信した場合、それが当たっていれば「地震が来るぞー」と大声で触れ回った方が良い。
しかし、そんな事をして、もし自分の予報が外れだったら、後で色々と責められる事に成ろう。
結果は、どうしても、(1)何も言わない、(2)大声で触れ回って当たりだった、(3)大声で触れ回って外れだった、という3つに分かれる。
(2)の人は、(3)に陥る危険を犯した点で(1)の人よりも勇気があり、当たりだった点で(3)の人よりも有為だ。
(1)と(2)の違いを、地震が明日来る事を知っていたか知らなかったかの違いがあるだけだ、とするのも、(2)と(3)の違いをクジ引きの結果の違いの如く言うのも、(2)の人に対する不当に低い評価だ。

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2015年01月22日の記事への補足。
誰でも他人を馬鹿にしている、と考える方が現実に近い、というのは、インターネット掲示板が流行した時期以来、ウェブを介して明白であり続けているのではないか、と思う。
面と向かっては言えない事を匿名で自由に言わせると、みんな心の中ではあんな風に思ってたんだ、という事が明るみに出るわけだ。
思っている以上に悪く言う、という事例も多く有るだろうとは思うが、私は、前々から受けていた抵抗の良い証拠が出て来た、と思っている。
私は、流行期のインターネット掲示板での悪口については、腹は立ったが、驚きはしなかった。
それらは、私が子供の頃からずっと無言の圧力として感じ続けていた物だったからだ。
そして、善い行ないを通して自分の能力の高さを明証的に顕示する事に私が露骨な無遠慮さを貫いて来た事には、潜在的な迫害者に懲罰を加える意味があった。
自分を証明する、という行ないは、事実を否定したい者だけを選択的に苦しめ、そうではない人には何の苦しみも与えない、という点に目を付けての事だ。
事実の証明が事実を否定したい者に与える苦しみは、証明の被害ではなく、事実を否定したい者が事実を否定したいという自分の性質から受ける害である。